2010/08/19

・良い面も悪い面もあると思うけど、今の生活/日常にたいして肩の力が抜けてきたように思う。ある程度の習慣や計画は意識しつつ、その日の直感ですべきことを選択している。

・私に必要なのは、実行力や集中力、基礎力あたりだが(ほとんど全部のような気がするが)、それらをどうやって学ぶか、みたいなのが見つかってきた。勉強すべき項目の確定。おそらくそれらを学ぶことでさらに先や別が見えてくるのだとは思うけれど…。

・基礎力は、例えばキーボード入力の速度についてもう一度見直して、タッチタイピングを見直しています。前の職場でも一番遅かったし、手が疲れるのも早かった。それはキーボードを見ている回数が多かったのが原因だと思う。どうも適当に入力して、ホームポジションを見失ったらキーボードを見ているようだ。できるだけ見ないようにして、指とキーの関係が間違っているところがあったので、修正しているところです。慣れてきたら速度と集中が上がって疲れなくなるのを期待しています。ただ、指が短いので7のキーだけが打ちにくいようです。

・もう一つ、基礎として論理学を学んでいます。頭の混乱が少しでも減ったり、組み立てたゲームシステムや物語の間違いを早期に発見できるようになれば、と思っています。論理学は今まで何度か挑戦したけど、答えを見るように本を読んでばかりだったので、手を動かして実践するのを大事にしたいと思っています。こういう風に取り組めるのも今だけかもしれない。キーボード入力の練習もそうだけど、よゆうを作り出せる人間ならば、働きながら実践したり、時間を取れたりできるのかもしれない。できるのならそうしたほうが人生は楽になると思う。

・それから、基礎と言えば、感性や感覚といった部分です。サラリーマン時代はあまりゲームを遊ばなかった(きちんと遊んでいた先輩をいまさらすごいと思った)。本、映画、芸術もそうですが、全体的に作品に触れることが少なかった。それから私は、なんでも受け入れるところがあるので、作品をするどく見て、良し悪し、美しいとか醜いとか、あまり問題にしていなかった。心の底では評価しているのかもしれないし、そうであってほしいと思うけど。もしそうでなければほとんど蓄積がないことになってしまう。それはとても怖い現実だ。鑑賞に限った話ではなく、優しさみたいなのがあるのだと思う。優しさではきっと磨けないものがある。ただし、優しさは長所でもあるし、私の個性のひとつだと思うので、バランスをとっていけたらと思っています。

・こんなことを書いたり、行ったりしていると学生に戻ったような気分です。表現という成果から目を背けないようにしないといけません…。

・日記だと30分で1000字ぐらい納得いくものを書ける。それを物語でできたらどんなに良いことか!

2010/08/12

・コンセンサスという言葉は見聞きはしていたものの、実際に使ったのは昨日が初めてでした。たぶんそれまで、コミュニケーションを楽しむために使ったり、何かを求めたりするのに使っていたけれど、保存されていなくて、決定を次回に反映させることをあまりしてこなかった。例えば、5時間話しあって結果を出しても、次に集まった時にその内容がほとんど失われている。こんな感じで、私にとってコミュニケーションは独立していたのだろう。コンセンサスというのは、いま話したことを今後のベースにしていきましょうね、という決定であり念押しみたいなものだと思いました。少し成長できたかもしれない。

・私には女々しいところがあって、ほっとかれ過ぎると、不安だったり寂しさだったりが発生する。別に毎日I LOVE YOUと言って欲しいわけではないのだけれど、異性に限らず、ある人間についてその人との交流が私が期待しているものよりとても少なかったら、私の精神は安定しなくなる。例えば、両親と1、2年話さなかったら、不安になるだろうか(ちなみに両親とは、十分に話せているから大丈夫です)。遠方の友達であっても2,3年何も連絡がないと寂しいと感じるだろう。最近は自分から連絡することも覚えつつあります。自分で相手を選べるのが良いです。反対に、連絡をもらったときの、その人が自分に関心を持ってくれているという安心感は得られないけれど。

・言葉でうまく説明できないけど、感情、勘やプライドなどの理由でどうしても譲れないことがある。それを相手に言葉だったり論理だったりで説明を求められることがある。それらは、しばしば、さもないとお前は間違っているから改めろ、みたいな調子で迫ってくる。こうした時にどうしたら良いだろう。説明はできないけど、譲れないんだ、としか言いようがなかった。私はどちらかというと迫ることが多かったので、反対の立場になってみて、かつてそうやって迫った人に対して申し訳なく思う。一方で、迫る側にはそれが明らかに間違って見えているし、それを正したらどんなに良いことかと思っている。こんな状況はこれからもたびたび訪れるだろう。私はどのようにふるまったらよいだろうか。

・論理は万能ではない。少なくても論理が弱い人間にとってはあまり役に立たない。例えば文句の言い合いをしているときに、論理で説明したところで、相手が受け取るのは論理ではなく、その言葉や語調に込められた感情だったり強さだったりするのがほとんどだ。

・また、私は臆病なので、言いたいことを言えないことが多々ある。特に、論理的な説明を求められる場で十分な説明ができないときは、つい発言を控えてしまう。何か物を作るときにそれは大きな失敗を育ててしまうことが多々あって、人に迷惑をかける。最初の会社は特に体育会系だったし、そこで反射的に控える癖がついたのかもしれない。それをためてどこかでまとめて出す、みたいなことをよくしてしまう。いまはそれでは困る場合が多いので、一枚一枚皮をはがすように、思ったことを言えるようにしているところです。たとえ根拠が十分に論理的でなくても、私情やプライドや勘であっても、言えるようになれれば良いなと思っています。

・身体、精神、技術、知識…知りうる限りのあらゆる側面から、ひとりで作品をつくるための向上を施していくこと。

2010/08/04

・良い会話があった時は日記を書きたくなります。

・良い会話とは何だろうか。少なくても私にとっての良いについて。すぐに浮かぶのは、心地よさだったり、嬉しさだったり、楽しさだったり、豊かさだったりする。この中で少し前までは、心地よさという項目は入っていなかった。これと同じ意味ですが、ゲームに心地よさは求めていなかった。私にとって、会話に求めるものとゲームに求めるものはほとんど同じです。つまり、今まであまり気にしていなかった心地よさを会話にも作ろうとするゲームにも導入しようとしている。たぶん、潜在的には心地よさをまったく気にしていないことはないはずだけど、意識をあまりしていなかったので表現には苦労しそうです。これは見た目やゲームで言う演出に関心があまりなかったのと同じです。苦労するだろうな、と思う。受け手のことを考えていかないと、作ってもあまり意味がないのでは、と思うようになっています。

・良い会話の話から少しずれてしまった。再挑戦。楽しいと思った会話の共通点を探してみると、あまりタブーのない人と、ちょうどお互いが理解できるぎりぎりの調節をして、色々な話題を横断しながら、思ったことをそのまま言葉にできるとき、会話がすごく楽しいと感じることが多いです。話す内容は、心もち知識よりも思考を多めなのが好み。それで、会話によって、人間とか世界の真理みたいなのが感じられたら最高です。それに加え、これは少し贅沢な要望だけれど、ある程度の年齢に達した人間には、その人間のストーリーやスタイルみたいなのを持っていて欲しいと思う。ここでいうストーリーというのは、ただ思い出や武勇伝の筋を語るだけでなくて、そこに意思や観念が含まれているようなもの。筋のあるなしはあまり関係がないかもしれない。ストーリーを感じた方を、大人っぽいと思います。そうやって生きてこられたのだなあ、としみじみ感じ入る。

・作業を地道に続けていくこと、手を動かし続けることは大事だと思うけれど、会話も同じくらいに大事だと思う。関心が会話と作ることにほとんど集まっている。あとは、深く掘り下げた趣味がひとつあればいいのかもしれないが、今のところ無趣味です。制作に関連のあることばかりに興味が向いてしまいます。生きている中心とは(一見)関係がないところで夢中になれるものが趣味ではないでしょうか。