2014/12/31

・大晦日なので15分で日記を書く。総括の振り返り。さっと浮かんだことだけを拾っていくように。

・今年はシルクエのiPhone版が出せたのと、インタビューと手帳コレクションの開始。インタビューは8人の人に話を聞けたし、手帳コレクションは展示の開催にまで発展してくれた。思ったより速度が出て、これまで生きてきた中でベスト3に入る1年だった。昨年もベスト3に入っている。このことは何度か書いているので、一時の気分ではなく、おそらく確定なのだろう。だからこそ、今後がとても気になる。この2年がピークになる未来には不満がある。

・インタビューと手帳コレクションはともに人間を指し示している。ポインタだ。人間がとても好きだった2014年だ。RPGだって町の人に「はなす」するのが一番好きだった。手帳展もあって、今年は過去最高に新しい人と会って話をした年でもあった。インタビューも、手帳展も他人がいなければ始まらない。展示はただいなサポートをもらったし。それはひたすら自分の中に潜るゲーム開発とはまた違っているが、一方でゲーム開発も良い人間と出会うことで一気に駆動する。本当に人間の駆動する力を感じた一年。

・結婚とか子育てとかそっちの道につながる出会いは残念ながらなかったけど、まったくアプローチしなかったわけでもない。1人として検討してもらい、その結果選んでもらうことの大変さ。まあ、そんなに甘いものではない。そういう人生のプレイをしているし、分岐の選択をしているのだから。プレイ、やりとりに見合った正当なインタラクションがあるのが、良いゲームだ。世界というハードウェアにのっかった、人生というソフトウェアも例外ではない。そして今のところフェアな人生だとも思います。

2014/12/11

・20分で日記を書く。約1ヶ月ぶりの日記。日記の日付を書くときできれば、12月8日ぐらいであってほしかったけど、11日。午前2時だから次の日になっているにしても、2日も余計に過ぎていた。師走という言葉はこれからもなくならないだろう。

・前回の日記は手帳展の初日だった。手帳展はそれから終わった。今年の仕事も終わった。そうしてようやく自宅から日記を書いている。できるだけはやく書く。はやく書く。手帳展のまとめを日付の変わる前ぐらいに書いた。手帳展は好評だった。僕の予想をはるかにこえていた。途中から、いつもの「根拠のない自信」に満ちてきた。たぶん、今年のすべての展示でもっとも価値があった展示に違いない、とさえ思った。でも、次の日の展示で、2時間ぐらい人が来なかったときは、こんなものか、このくらいしか評価されていないのかとさびしい気持ちになったりもした。自分の展示だからそれぐらい当事者意識があるのは当たり前かもしれないが、いささかオーバーだろうか。いや、このくらいの浮き沈みと情熱と自信と期待と不安を持てるもの、自分自身で持てるものこそを、今後も僕は取り組まねばならないのだろう。本業とも言える、『シルアードクエスト』より手応えがあったかもしれない。それは僕自身の欲望を見つめれたという点において。ようやくだ、という感覚が近い。ちょっと遅いかもしれないが、手遅れというほどでもない。ちょっとした運命のあやで、この地点に到達できなかった可能性もあった。それは決して低くなかった。独身だったり、残念な点もあるけど、あまりにも不条理というほどではない展開だ。

・夜らしく一気に書いた。少し背中が痛くなった。今日は文章を書きすぎているのだろうか。ずっとコタツで書いている。僕は多分1日に5000字が限界だ。それぐらいですごく書いた、という気分になる。

・手帳展は今後どうすべきだろうか、集めたい手帳、コレクションの方向性は見えている。多様性、バリエーションを第一に大事にする。手帳の万華鏡であり、万葉集。万葉集はとても好きなありかたをしている。万葉集という言葉を知ったのは、小学生か中学生の頃だろうが、万葉集の好きさを知ったのは、25歳をこえてからだと思う。友人がたまたま万葉集を選び、意図的かつ恣意的に僕の元に届いた。きっと今回の手帳展の運命に関与しているだろう。2年ぐらい前に作った詩のサイトもおそらくプレゼントされた万葉集から来ているし、手帳展はあまりぱっとしなかった詩のサイトを受け継いでいる。ADVゲーム『街』のように、運命の分かれ道は簡単な選択肢程度のことで決まっているのかもしれない。

・今年は『シルアードクエスト』のiOS版のリリースに、手帳展(正式名称は"「あなたが使った手帳、売ってください」手帳コレクターによる初のコレクション展in荻窪")、とても大きな1年だったと思う。去年の『シルアードクエスト』PC版もとても大きかった。もうそれを上回れる感触は(別のベクトルであっても)持てないかと思っていたけど、そんなことはなかった。ベクトルのスカラはもしかしたらシルクエの方が大きいかもしれないけれど、今回の手帳展はまったく育てていなかったベクトルを発芽から一気にのばしてくれた。雨後のひとつのタケノコのような。でも来年はここまでの感触は難しいだろう。温まっているネタがないからだ。だけど、そうも言ってられない。手帳コレクションも養分にして、なんとか作り出せたらと思っている。形はゲームがいい。

2014/11/15

・2週間ぶりの日記だ。平常と言える。手帳展が開催されているが、まだ誰も来ていなくて、時間がある。手帳と言えば、このブログはずいぶんと手帳的な日記と言えるだろう。誰かに読まれることを意図していない。もっとも、オンラインであるから、手帳に比べれば幾分か気をつけて書いているのは間違いない。そういう点でオフラインの手帳や日記帳はプライベートが最大だ。だから集めたいという気になった。集めるからには、好きな物、できれば最高のものがいい。

・それにしても、展示をやるのは、色々と気をつかう。どんなことが起こるか分からないし、そもそも人をもてなしたり接待したりした記憶がないから途方に暮れる。気をつかっていると自分では思っているけど、自分に向けられた気遣いを合計すると、おそらくは使われている量のほうが多い。恵まれて育ってきたんだろう。育ててもらった。

・例えば、面識のない人がふいに展示に訪れた時、きちんと趣旨を説明できるだろうか。飲み物をさりげなく出せるだろうか。そもそも飲み物は適切で十分な飲み物を選べているのか。展示会場の気温は大丈夫か。湿度は。トイレは清潔か。良いBGMがかかっているか。気を使うことは多い。

・まだ人は来ていない。しかし、そろそろ来るだろう。本日の日記はここで一旦終えることにする。また明日書けるかもしれない。

2014/11/02

・1ヶ月以上も日記が空いている。ただし、Facebookにいくつか日記を書いているので、完全に日記を書かなかった訳ではない。それでも、Facebookとこの場所では書くものは違うから、書き漏れた、セーブしそこねたできごとや着想があるかもしれない。それは残念だ。いつか、形を変えて、よりよい閃光となって頭に浮かんできてほしい。

・手帳の展示を開催することになった。他人が使い終わった手帳コレクションの展示となる。先月、ギャラリーに住める話があった。家主が一ヶ月不在にするのが理由だ。これを借りたとき、ただ住むだけではもったないないと思った。そこに、別のギャラリストが仕事を募集している事態が加わった。この二つのできごとがあって、僕は展示の開催をすることにした。またとない機会だと思ったからだ。ただ、手帳プロジェクトはもっとゆっくりすすめるつもりだったから、頭数が足りない。急ピッチで手帳の(レンタルを含めた)入手を進めていき、なんとか20冊は確保できた。開催までにもう少し上積みがあるかもしれない。11月15日からスタートする予定。

・手帳展(プログラム的な意味で)割り込みがあったため、インタビューは6人目の書き起こしが終わったところで一時停止。応答が多すぎてこれ以上作業は増やせない感じです。地味にヤフオクの連絡も効いてきます。仕事が定時にあがれているおかげでなんとか持っています。今の出向先は働きやすくて本当に助かっています。みんな優しくてすごくいい会社です。

・調べる時間があったので、所属先のアーティストが「掘る」と呼ぶ行為を気がついたら始めていた。まだ浅く掘り始めたばかりだけれど、それでも、物語ゲームに新しい光が当てられた。『センスは知識からはじまる』という本が示すように、勉強するとそれだけ、新しいセンス、新しい着想、着眼点が得られるものだ。今まで知識を見下していたところがあったかもしれない。少なくてもおろそかにしていた。

・つまり、僕は、それまで偶然に得た知識や経験だけで作品を作ろうとしていた。それで作品が作れないとだめだと思っていた。それも真理だと思うが、それだけで作品をコンスタントに作れるほど、開発力がなかったのだと思う。開発力とは技術力や着想など、企画から完成までのすべてを含む言葉として使っている。正確には、シルクエの正統進化ゲームは作れても、おぼろげながら目指していた物語ゲームの開発力がなかった。『ツキのないがいこつ』は偶然にできたにすぎないし、あぺぽぺの制作は論外だった。僕はいよいよ自ら掘り進めた知識を導入し始める。34歳。人生の半分ぐらいが過ぎてのことになる。

・そういう訳で、今は文字と文章を中心に掘り進めている。僕が好きなゲームはすべからく文字や文章が大きな役割を果たしているからだ。タイポグラフィ、コンクリートポエトリー、インフォグラフィック、記号、これまでの小説やゲームなど見ている。まだ知識の獲得のしかたはうまくない。どこかにたどり着くために知識を獲得したり、歴史をたどったりしていかなければならない。まだどこか、さまようように知識に触れている。もし、物語ゲームの形がくっきり浮かんできたら声明を出して、いくつかの小さな作品を提出できるだろう。

2014/09/27

・10日間隔が開いての日記。前回が20日ほど開いたから次は5日後に日記を書くだろうか(まずない)。明日インタビューを控えているが、相手への質問の精度を上げるべき時間に、自分のことがたくさん浮かんできてしまうもので、そういうものだとして、日記を書こうと思い立ったわけである。

・前回の日記に書いた日常で良いと思ったさまざまな情報や、人や、知識を、ゲームの形に閉じ込めたい。物語はそれらを形にしたり落とし込むのに便利な方法である。そう言ってしまってはどうか。これだけ物語という言葉を使ってもなお、物語が中心にないような気がするのは、物語重視であっても、物語中心ではないのかもしれない。物語を起承転結のようなお話というだけでなく、ゲームならでは物語、語り方という範囲まで広げてしまえば、なおも物語中心であるかもしれない。

・なぜ僕はゲームが作りたいんだろうか(ゲームでなくていけないのか?)というふわふわした問いにも、答えが出かかっている。The Tokyo Art Book Fairや、裸足での山登りや、朗読会や、海や、ドキュメンタリー映画などを見て、楽しかったり感激したりしても、それでもなおゲームという体験が揺るがない。しがみついているのかもしれない。過去を美化しているのかもしれない。それでも、揺るがない。

・ゲームを遊ぶ人は、どこか孤独が好きで、孤立したような感覚や、どこにも属せていない感じをもった人が多いように想定している。自分自身を元にした想定ではある。社交的で毎週末の人と会う予定が埋まっていたり、たわいもない話を投稿したらお気に入りやイイネが100個ついたりするような人ではない。美少女ゲームのような流通と共有が十分に満たされた作品群でもない。だけども、だからといって、そんな人にも豊かさを体験できるべきだし、届けようとするものがあっていい。ただの慰みものではない、もう少し、いくばくかの、野心と希望の発芽を試みるようなゲームだ。ゲームから始まる物語や進行があってもいい。箸休めにしてくれても、踏み台にしてくれても構わない。そんな気持ちになる物語で包んだゲームを作りたい。

・タイポグラフィを大事にしたゲームは目指したいもののひとつ。タイポのアニメーション。それを実現するクラス図のイメージができている。

・ゲームも物語も器だ。僕にとって長く自然と親しんだ器。

・アートに鑑賞者教育があるように、ゲームのプレイヤー教育についても考えること。できればゲームに押しつけがましくなく盛り込むこと。そうしないと既存のゲームになれたユーザーに分かりにくく、すなわち伝わらなく、届かない。

・僕が作るゲームには、マンガ並の分かりやすさがあってほしい。シルアードクエストもそうだが、既存の親しまれたゲームを土台にしてもいい。分かりやすいからといって、新鮮さや驚きがないわけではない。

・これが今日の日記だ。

2014/09/16

・20日ばかり開いただろうか。日記を書く気持ちになれていなかった。2時間前にFacebookにも日記を書いたが、そこに漏れたもの、あえて漏らしたものを書いていこうか。書けることはあるだろうか。

・なぜ日記を書かなかったのだろうか。書きたいと思ったタイミングはあった。ためようと思ったのか、単に疲れていたのだろうか。じんましんが治っていないからだろうか。もっと楽しいことに包まれていたからだろうか。日記が嫌いだったのだろうか。通信回線が悪くてアップロードできないと判断したからだろうか。雨が降っていたからだろうか。腹がたっていたのか。眠たかったのか。プログラミングをしていたからか。インタビューの記事を優先させていた可能性は高い。日記はどうしても後回しになりがちなものである。

・日記を書いていない間に、ますます興味が増えて困ってきている。嬉しい。ただでさえ作る割合が減って来ているのに、学習したい対象が増えているわけだから、何かしらバランスをとらなければ。インタビューを作品に含めて良いのなら、まだ、作れているのだろうか。processingで小さなテストプログラムを作り始めてもいる。おそらくはこれぐらいの小ささ、コンパクトさにしていかなければならない。作品の小ささは僕にとってますます重要になってきている。

・小さな作品、および細密画の意味を持つ言葉を過去ログから探し出していた。「ミニアチュール」だった。

・少なくても2010年からは小さな作品を指向しているが、たまたま『ツキのないがいこつ』を作れただけで安定した成果は出ていない。この方向は非常に大事だ。再び取り組んでみること。実現したいエッセンスを小さな作品に封入して完結させる。細密画のように小さな部分を丁寧に繰り返し作り続ける。

・今年になって興味の広がった対象を列挙しておく。タイポグラフィ、人工知能、ジェネラティブアート、3DCG、人間、他人、音声認識、物語構造、数式、インタビュー、インフォグラフィック、手帳集め。これらを私の好きなゲームの形に「できるだけ小さく」落とし込むこと。ミニアチュールとして発表しても良い形にしたてること。仕事が落ち着いたら、これらに取り組みたい。不死鳥のごとく、シーシュポスのごとく、あぺぽぺのごとく、何度でも挑戦する。

・ミニアチュールに適合する、相性のいい物語を作れるようになること。これはミニアチュールな作品を作れることとほとんど同じ意味をもつのかもしれない。

・2日間、インタビュー原稿以外のほとんどの時間を空白としてすごしただけあって、良いまとめのような日記が出てきてくれた。

2014/08/25

・2週間あいたようだ。私はいま少し疲れている。単に眠たいだけかもしれないが。きちんと疲れるまで起きて良い睡眠を得たいと思っている。そんな状態で日記を書き始めるとしよう。

・30分程度でさっと書き上げたい。待て。15分にしよう。

・週末は映画人や詩人のパフォーマンスを見たり、交流を持ったりした。彼らの魅力はやはり人間の部分にある。人間味や生き方、生き様をよく見せてくれる。見せる術をもっている。決して平穏でも無難でもないかれらはトラブルが後を絶たない。それでも彼らは進んでいるし、表現しつづけている。それが僕を引きつける。作品だけ見れば良くて、作っている人はどうでもよいという意見は分かるけど、僕はやはり人を見ている。ゲームにも持ち込みたいと思っている。ゲームという装置を使って生き様をやりとりとして体験させること。具体的ではないが、いいところに気がつけたと思っている。

・さらに先週末は以前インタビューをしていただいた人に今度はインタビューをしていただいた。たぶん今日の日記、これからの日記に強く影響が残るインタビューとなった。日記どころではない。僕にとって「物語ゲームとは何か?」「人が好きな理由は?」といった根本的な問いをいくつもいくつもしていただいた。回答はしたが、完璧な回答ではない。何度も回答を更新すべき質問たち。彼女がしてくれた質問を考え続けられれば次回作にたどり着ける。そこまで漂流する。漂流というと頼りないが、それは新しい思考回路の開通。

・ゲーム特有の要素、UI、操作。既知の分かりやすさを存分に使って困難なく伝えること。同時にそれらの伝統にとらわれない自由なふるまいを作ること。そんな相反することを同時に考えること。行ったり来たりするうちに案外とコンパクトなゲームが生まれるような気がする。

・明晰に書けたかは分からないが、短いながら良いセーブ、日記が書けた気がする。今日はこれで十分だろう。

2014/08/09

・また3週間以上、空いてしまった。ただ、Facebookに日記のようなものを(いいね欲しさで)書いているので、日記自体が久しぶりという感覚ではなない。Facebookの日記は、ここに書くよりは、出来事や行動が主体になっていて、伝わりやすい日記を書いているだろう。実際にどの日記がどれだけ伝わっているかなんて分かりはしないのであるが。ただ、残念かもしれないが、いいねの数はひとつの指標にはなる。

・インタビューをしたり、人と会ったり、人と飲んだり、ディズニーシーに行ったりしただろうか。群馬の自宅で過ごした日もある。これらの出来事や日々はどれだけ自分に入力を与え、影響を及ぼしているのだろうか。

・前回の日記を書いて、ほどなくしてから、夜中に手のひらや足の裏が熱くなってかゆくなる事態が発生した。風呂に入るのが悪いのか、それとも眠気が悪いのか、よく分からぬまま、インターネットで調べたり、症状を自分なりに分析したりした。それによると、隠れ冷え性か、じんましんか、可能性は低そうだが自律神経の異変か、というあたりだった。隠れ冷え性が一番当てはまると思っていたら、どうも腕や足なども熱がゆくなってきていて、掻くやいなや腫れているではないか。じんましんの可能性も高まってきた。いよいよかゆみに我慢できなくなって病院にいったら果たしてじんましんだった。ありがちな病気という診断に一安心した。

・病院で貰った薬が思いのほか効いて、薬を飲み続けるかぎり、かゆみはぴたっと止まっている。これなら、もっとはやく薬をもらっておけば良かった。薬代よりかゆいことでのパフォーマンスの低下のほうがよほど高くついた。かゆいとプログラミングにならない。あとはしばらく後でいいから、じんましんが治ってくれさえば良い。いくら薬を飲むとかゆくないとはいえ、常に薬を飲み続けるのはしたくない。一般的には、薬は何かしら毎日飲んでいるものなのだろうか。

・日付が変わるまであと12分ある。それまでに日記を書き終えられるだろうか。書き終えるというのは、書きたいものを一通り出し尽くした感じがしたときをさす。

・個人制作はほとんど動いていない。相変わらずインタビューと手帳集めを個人制作の代わりに取り組んでいる。手帳は7冊になった。今年中に目標の10冊に届くかもしれない。今後は直接の知り合いじゃない人からも入手できないと厳しくなる。あるいは、常に新しい人と出会い続けるか……。

・続編をのぞき、作ってみたい個人制作が3つの方向に区分できそうだ。システムを自作するRPG、コマンド選択するミステリのADV、それからメディアアート成分のあるアプリ、の3つだ。本当は、ミステリのADVが第一希望だが、相変わらずお話ができないので、お話にならない。RPGとアプリはとっかかりはかなり固まって来た。

・ただ、どちらも実験的で、RPGは時間がかかるし、アプリはクオリティが保証できない感じ。一番いいのは、コンパクトでインパクトのある、短時間で作れるものがいい。一般的に時間のかかるゲーム制作を以下に細かく分けて、作品として切り出して、作品が別の作品の部品になり、作品発表の連続の中にゲームのような有機的な作品体(大きな作品)ができていくのがいい。そういった作品の連なりをシナリオ、ストーリーとして考えることも、とても大事なことだと思っています。

・今日は残り1分。日記ももう終わりだ。

2014/07/13

・前回2週間以内に書いた反動なのかは分からないが、3週間空いてしまった。何を書けるだろうか。かなり抜け落ちているのではないかという気がする。日記を書く直前のできごとに重みができる。それでいいのだろうか。あるいは記録すべき、したい事柄が浮かんだときに日記を書く気に(機に)なるのだろうか。

・できれば、僕を丁寧に取り扱ってくれる人を優先したい。もちろんその人はその人自身も丁寧に取り扱ってほしい。僕も丁寧でいられるように調整したい。その基本になるのは、潤沢な時間。

・先日は、これまでで一番東京だった1日だったかもしれない。東京の最高記録。首都高や東京タワーを遠くに望む視点。パラノマではない。パノラマ。車の止まらない首都高速。点滅し続ける高層ビル群の赤いランプ。様々な点滅のパターン。まるで東京という体のようだった。体内に住んでいるようだった。体内は胎内。だろうか。そんな東京の中は、案外と居心が良かった。体は常に動き続けるから体でいられる。止まらない。ここは常に動き続けることを要求する場所なのだ。

・動き続けることを要求するのと、動く事を要求し続けるのとの違いについて。最初に文章として出てきたのは、前者だったけど、感覚は本当に前者に近かったのか。ただ違いを認識できていないだけではないのか。文章はきっとどれだけ認識できて、その認識通りに言葉をとってきて配置できるかにかかっている。

・1年ぶりにあった良い友人が、文章は大事だといっていた。影響力がある。影響し続けるのが文章だと。日記では続きを考える。視線を一瞬で奪うのなら絵だ。強制的に気づかせたり、感情に作用するのは音だろうか。そしていつもここにくるが、ゲームはこれらを3つすべて持っていて、自由に組み合わせて再生してよい。

・一方でゲーム制作の課題は明確だ。とにかくつくるのに時間がかかる。文章だけよりも。絵だけよりも。音だけよりも。数ヶ月かけてようやくひとつの失敗作を作れる。一発みたいなミニゲームもあるけど、文章を書きたい人が常にショートショートを書きたいわけではないのと同様だ。ミニゲームはショートショートではなくて、ネットの面白記事みたいなものだと思っている。

・良い友人に「パワーアップしているね」と言われて嬉しかった。かなりうまい、いい褒め言葉。きっと人付き合いの構成、人間構成が変わっているからだと思います。決してそれまでの人間が足りなかったわけではなく、自分の基礎代謝があがったのだろう。人間に対して。

・ここで日記を終える。昼ご飯だ。

2014/06/23

・前回から二週間経っていない日記は今年なら珍しい。他人の手帖は増えていないけれど、経験値、体験値が一定値を超えたから日記が書きたくなったのかもしれない。もしこれが本当なら、2週間に1度の日記で良いのか、そんな日常で良いのか、あるいは十分なのか、という話になってくる。きやしないだろうか。

・インタビューを記事にしていて、3人目の記事が後書きを残して完成した。これまでもどの原稿も、最終的には取材者(インタビュイー)に確認してもらって、さらに加筆修正をしてもらっている。自由にお願いしているのもあり、ここで原稿はがらりと変わる。構成が変わることもあるし、文体が変わることもある。客観性の範疇でネガティブに書くと自分の書いた文章は破壊されている。それを読んでみて、良くなっていると思うし、それはそれで構わないのだな、と自分自身に対して思った。むしろ望んでいる。やりとりが好きなのは、ここでも変わらなかった。何度も漆を塗るような行為、ブラッシュアップのたぐい。推敲とも言えるが、他人による推敲。移譲とも言える。デリゲートとも言えるだろうか。言えないかもしれない。丸投げとも言える。

・やりとりといっても指示だけされるやりとりはあまり好きではない。手を動かしてもらえるやりとりが好きだ。それが僕がゲームを好きなひとつの理由かもしれない。擬似的にでも、虚構の世界でも、手を動かしている。自ら動いている。その行為こそが好きだ。おそらく人間も手を動かしてくれる人間が好きだ。手を動かさない人は尊敬はできても、次第に減って行く。蟻が好きだ。実際の蟻は母親を悲しませるので大嫌いだが。

・出歩かないよねって言われるけど、引きこもらないとできないんです。その違いが悪くない。選べるのが大事。

・年齢のせいもあるんだろうか、身体に関する情報をよく耳にするようになった。制作する上での身体。身体と書くとかっこいいかもしれないけど、体ね。からだ。

・寒くなると眠たくなる。休日に寒くなると黄信号だ。単に寝不足だったのかもしれないが。

・「空を飛ぶ会」がとても素敵で気分がいい。良い時間たちで良い人間たちだった。こんな集まりへの参加を直前まで決定していなかったのは思い返すととても危ない。結果的に2回目もやるみたいけど、一期一会って感じはあった。よくわからないけど、大事にしていきたい。今回の日記に大事って言葉がたくさん含まれている。セーブすべきプレイデータがたくさんあった、という裏付けになるだろうか。

・人もやりとりができる人を求めていきたい。手を動かせる人。まあ色んな相性が大事。個人制作もそろそろ再開したくなってきている。構想を少しずつ明らかにしていこう。アプリっぽいものの構想は形になりつつあるんだけど、できればADVを作れたらなって願望がある。しかしこちらは何もまとまっていない。

・出会った素敵な人たちを、普通の人たちとも絡め合わせて、ゲームの表現を用いてやりとりのある物語として落とし込めないものか。レベルが足りないのはこの辺りだとはっきりしだした。まだ、人に納得してもらえる説明はできそうもない。ないが。

・まだ書き出すべき内容がありそうなのだが、出てこない。タイミングを逃したのだろうか。これが今回の日記、今回の記録だ。

2014/06/14

・日記を見たというコメントをいただいて、あわてて日記を書いている。6月になって日記を書いていないのは分かっていた。他人の手帖は2冊手に入れて、4冊になった。

・ときどきはさぼるものの、インタビューの文字起こしや編集をほぼ毎日している。そうすると文字を書く時間が増える。走り慣れていない人が10キロをマラソンするのが困難なように、僕はまだ10000字を書いて平然としていられるような文章の体力はない。それで日記に向かえなかったのだろう。2000字もいかないぐらいで息があがり休憩を求める。インタビューやNoteで出会った人で、文章をたくさん書いている人がいて、どうしてこんなに連続で文章の固まりを出力できるのか、すごいな、差があるなと。絶倫。文章をたくさん書く人のいる空間に戻ってきた。

・どんな空間にいるのか、その空間にどんな人がいるのかはすごく大事。インタビューやNoteが結局何をもたらしたかというと、新しい人をもたらしたにすぎない。すぎないが、これを得るには、大きなエネルギーがいる。ありきたりな話になるけど、多くの人は流れるプールみたいな運動/生活空間に放り込まれていて(社会/世間などと呼ばれる)、新しい人や環境を得るにはその流れに逆らわないといけない。新しいSNSが運んでくれるのは、逆らうエネルギーだ。そんな新しい流れに、同じ人と突入するのは、自覚的にやれば面白い試みだが、新しさの機会をふいにしているもったいなさもある。

・新しい人に会いたいなと思うし、とっとと十分な良い人を確保して落ち着きたいなとも思う。確保し続けることは無図解師のだけど。無図解師ってちょっとかっこいい。難しい。魅力的な人が常に新しい人を求めていたら、僕はその人をあきらめなければならないのだろうか。人をしぼろうとすると、そういう問題も見えてくる。5人にインタビューして、短期集中でその人を知ろうとする体験は、人についての新しいもやもやとした感覚(まあ、謎だ)を運んで来た。もちろん、ゲームとしてはより先に進んでいるし、もっと運が悪ければ人についてのこんなステージ/ルートを知らずにエンディングを向かえていた。そちらのほうがよりハッピーエンドだったかもしれないが、とにかくこういう分岐を選択して進んで来た。どんなクオリティのゲームであれ、進んでいるという感覚。プレイ感。

・ゲームと現実を区別しなさいと、紋切り型の台詞はあるけど、いまや一転、この日記のようにしてゲームと現実の境界を取り払おうとしている。互いに持ち込み、持ち込まれる。そこでやりとりされるデータの形式は構造を持った物語だ。

2014/05/26

・Noteのインタビューが予想外に好調で、日記を書くのが1週間遅れてしまった(普段2週間に1度書くと算段して)。平日は毎日出向しているので、必然的に時間は夜と週末に限られる。だいたい週に1度ぐらいのペースでインタビューの予定を入れてしまったので、つまり1週間にひとつ準備、インタビュー、記事化をこなさないと、たまる。それでたまっています。

・手帖の2冊目もうれしい出来事だ。この調子でまずは10冊集めたいと思っています。

・まとまった時間のいる個人ゲーム制作はすっかり間があいているが、インタビューと手帖が良い刺激、できれば良いネタ・インプットになってくれないだろうか。多分なる。少なくても、人について深く見て行くことと、編集の練習、分かりやすく伝えるための文章の整理など、物語の付近で活動はしている。

・5月の頭からずいぶんと長い間、咳に困らされていたが、ようやく完治した。健康を確認しながら、作業や仕事ができるのはとても気分がいい。普通にできれば、それなりに成果はでるからだ。

・しばらくインタビューが中心の生活になるだろう。ゲームよりは圧倒的にコンパクトな準備で成果がでるのがいまはいい。短編物語ゲームを作っているときの気分に近いが、短編ゲームは自分の場合こんなに連作できるものではないので。(分野が違うにせよ)多作の感触として記憶に浸透させておく。

2014/05/01

・5月になったということだろう。風邪で仕事を休んでいるが2日も何もしないでいるわけにはいかないので、日記を書いている。今日は文章をたくさん書けている日だ。前回の日記から2週間経っていない。

・CotEditorという名前のついたMacの新しいエディタを先週ぐらいから導入している。このエディタに縦書き入力モードがついていたので、さきほどから縦書きで入力してみている。感覚は面白いが、ローマ字の入力部分が縦にならないので、気持ちが悪い。慣れのせいだろうか。この段落を書き終えたら普段通りの横書き入力に戻そう。

・今後も縦書き入力はときどきやってみようと思う。いつもと違う日記が書けるかもしれない。思考のでてきかたが普段と違うような気がした。普段スプーンで食べるカレーを箸で食べるような、奇妙なメカニズム。文字の出方と思考の出方の相互作用が気になった。

・新しい文章を取り出せるのは、縦書き入力だけではないかもしれない。例えば新しいエディタを使う。普段とは違うフォントにしてみる。エディタの文字の色や、大きさを変えてみる。背景の色を変えてみることもできる。実はまだ縦書き入力モードで書いている。なかなか楽しい。誤字脱字はいつもにも増しているはずだが。

・縦書き入力にはもうひとつ面白い特性があった。横長のモニタを使っていると、画面を入力文字で占有できる。横長のモニターで横書きだと1行が長くなりすぎると視認性が悪くなるが、縦書きだとそれがない。もちろん縦長のモニターにすれば今度は縦書きのモニターが見にくくなる。とにかく文字をたくさん出したい日は、縦長モニターと横書きの組み合わせか、横長モニターと縦書きの組み合わせが良さそうだ。あるいは本のように2段組になる横書きのエディタはどうだろうか。

・縦書き入力が面白くて、話題がそれてしまっtが、Noteにさらにのめり込んで、インタビュー企画も走らせてしまった。手帖収集企画もあるから、これ以上は企画を増やさないようにしよう。なんといっても個人制作がある。ただ、手帖もインタビューも物語ゲームも自分にとっては通底している。手帖の持ち主に想像をめぐらしたり、インタビュイーについてあらかじめ念入りに想定したりするのは、物語のキャラクターづくりに他ならない。人を考え、想像し、創造する。いつからこんなに人について考えるようになったのだろう。

・それにしても縦書き入力になれない。おもしろい。もっともっと何かを書いてみたくなる。何でも良いから。

・雨の降る5月の夜は縦書き入力にかぎる。

・書くことが楽しくなれば、良いな。まだ、なにか書こうとしている。文房具の試し書きに近い感じで書いている。書き味とでもいおうか。

・CotEditorは入力文字数や行数もデフォルトで出してくれるのでますます書くのが楽しい。たまたま選んだがいいエディターだ。ちなみに筆が滑るが、プログラマは良いエディタをたまたま選べる人種である。エディタと書いたりエデュターと書いたりしているが気にしない。もう1330字も書いてしまった。

・インタビューはいきあたりばったりになりそうだが、ひとつだけ決めているのは、最終的な記事の密度についてだ。できるだけコンパクトにして高めたい。できるだけ削ぎ落としてどこを読んでも密な感じをだしたい。たとえばTwitterの140字、ノベルゲームやRPGのメッセージウィンドウに収まるぐらいの簡潔な文体の連続で構成したい。もちろんそのおさめた文字列の固まりひとつひとつが中身をしっかりと持っていること。これは物語を中心としたゲームでもそうありたいなと薄々思っていたことだ。京極さんがちょうど本の見開きを単位として文章やできごとをきっちりとおさめていくように。デザインの心得はたいしてもっていないが、文字、文章にだけは、心得があってほしいな、と自分に対して思いました。

・縦書き入力モードの画面も残り少なくなってきた。画面いっぱいを日記が占めてきて、そろそろスクロールを必要とする。スクロールは良くない。読みづらくなるし、書きづらくなる。プログラムの関数だってそうだ。ほどほどの長さは画面の大きさとも関係する。そもそもCotEditorの縦書きモードがスクロールに対応していないように見える。そろそろ今日の日記を終わろうと思う。ほどよい限界だ。今日の日記よ、さようなら!

2014/04/21

・4/13日に日記を書こうとしていた形跡があったものの、手つかずで、結局2週間ぶりに記す。

・noteというサービスがうまれて盛り上がりを見せている。私も登録した。初めてこのブログを見る人のために説明しておくが、実はこのブログは長い間noteという概念で書いてきたので戸惑っている。ただ、少なからず私自身のnoteと似ているところがサービスのnoteにもありそうだ。それはアイデアや考えのスケッチであり、原型であり、プロトタイプであったりする。つまり、作る人が書くnoteという側面はとても似ている。

・一方で私のnoteは当初とは違い、いまは日記的な側面を帯びてきている。これはサービスのnoteでは薄い側面だろう。あまり歓迎されないのではないか。日記的なものやつぶやき、くだらないことなどはTwitterへとすみ分けがみられる。Twitterのサブセットな側面がnoteということになるだろう。アイデアの宝庫であるかもしれないが、パクリと参考の間の問題は生まれそうだ。そしてnoteは買い手市場としてスタートしたように思う。

・さて、手帖だ。私は作る方が好きだが、いつしか書い手としての私も開始させたいと思っていた。長い時間をかけて買い足していくのがコレクターの醍醐味だ。私が買いたいものは何か。物語ゲームや現代アート作品は買ってみたいもののひとつだが、もっといま心を奪われるものがある。それが他人の手帖だ。他人の手帖をのぞきみてみたいし、あわよくば所有したい。noteというサービスにより、私の欲望が瞬時に形を得た。当然、他人の手帖なんてものは簡単に手に入るものではないだろうが、少しずつ集めていきたいものだ。

・思えば私がこのブログをはじめたきっかけは図書館で借りた『思考の手帖』という一冊の本だった。それは哲学者の手帖のようなもので、わたしの心をかき立てた。すぐに私は自分用に買い求め、他人の手帖を所有する愉悦をあじわった。少なくても2007年よりもっと前の話だ。

・『思考の手帖』にすっかり魅せられた私は、それから他人の手帖を探してみたが、良い出会いは少なかった。ヴィトゲンシュタインの断章はそれに近かっただろうか。『思考の手帖』もヴィトゲンシュタインも哲学的で難しいところがあるので、私はもっぱら、詩として読んでいた。あるいは音楽を聴くように読んでいた。次第に私のnoteは手帖というよりは日記になっていった(それにたいして自分自身で不満や疑問を持ち続けながら)。紙の手帖にしても、書きこむときと書かないときとで差が多くなった。やがて、スマートフォンやDropbox上のchangelogに書き込むことがほとんどになった。

・ところがつい先日、神保町で手帖を手に入れる機会があった。これは沼正三という作家の『ある夢想家の手帖から』という、手帖というよりはエッセイ集であるが、マゾヒズムにあふれたこの書物は、再び他人の手帖をのぞきみるという喜びを思い出させた。物語ゲームのアイデアを探している現在の私に、手帖が物質的に、あるいは希望として、再度、心を占有し始めた。冗長になってきたのでそろそろやめるが、そうしたときに、noteというサービスがインターネットにあらわれ、他人の手帖を所有したい欲望を点灯させたのだ。

2014/04/07

・いつも通りの2週間ぶりの日記である。ちょうど2週間おきに、水面に顔を出して呼吸するように。

・息継ぎの少ない働き方をしている。強制されてそうしているわけではなく自ら。シルクエのPC版の時はプログラミングをしなかったので、新しいシステムを個人でプログラムすることになったとき、ある程度の速度で作りたい。できれば仕事はそのための訓練の場でもあってほしい。ゆっくり終電まで働くほうがたぶん疲れないが、身体に負荷をかけて強化できるのと同様の効果を期待している。

・今後時間はもっと少なくなるし、しかもまた一人で作らなければならなくなるかもしれないのだ。できるかぎり避けたいが、それでも続けていきたい。そこに戻っても続けられなければならない。

・群馬の自宅に戻ってドライヤーで髪をかわかした。どうしてか、東京のルームシェアの家に比べてうまくかわかせない。髪の質感が違う。シャンプーのせいだろうか。ドライヤーのせいだろうか。それとも群馬の気候のせいだろうか(可能性は一番ひくそうだ)。ドライヤーは今のルームメイトに教えてもらって使うようになった。きちんと乾かしていると寝ぐせがひどくならないのだ。こんなことも知らずに生きてきた。こんなことかは分からないが。そもそも分からないのが問題だ。

・そんな生活のささいなことに気をもつようになった。他人と住む効能だろう。関心の範囲が広くなっている。対応可能な範囲も広がっている。同時に薄くもなっているのだろうか。これもまたよく分からない。ピアノのインストを聞きながらこの日記を書いている。

・人間についての関心が高まっている。世界への関心はどうだろうか。ある知人が宇宙と恋愛を対にして考えていると言っていたが、それが僕の場合には、世界と人間なのかもしれない。知人の対ととてもよく似ている気がしたが(影響を受けたのだろうか?)、それを本人に言うとどちらにせよ怒るだろう。作り手の多くはどうしてこうなのかというほど、激しい性格の持ち主が多い。僕といると激しくなってしまうのだろうか。できれば、穏やかに共同制作ができる人を望んでいるが、火に水を望むのに似ているのかもしれない。よく誤解されるが、自分自身が激しくないわけではない。

・これが今日の日記だ。

2014/03/25

・ああやはり2週間がすぎている。そしてまた月曜日の夜だ。

・時間を持っている仲間がほしい。(再掲)

・思えば昨年も半年ぐらいは自宅にいなかったが、今年もほとんど自宅に帰れていない。居候でありルームシェアだ。人と暮らすのを楽しく感じ、一人の生活に戻れるだろうかと不安になっている。時々自宅に帰りだらだらしたいという気持ちにもなるが、自宅が遠いのでだらだらした気分では帰ることができない。

・誰かと住んでいると気が引き締まり、生活も引き締まる。誰かと一緒にいると、だらだらする時間が減る。だらだらできる人と住めばだらだらできるのかもしれないが、だらだらしすぎている自分は好きではない。だらだらしたい。また、だらだらしているときはだらだらしている気分になりたい。さもなくばだらだらしている意味も効果もないからだ。その点でも、誰かと住むと効果的なだらだらになる。良いだらだらである。このようにだらだらとはデリケートなものだ。だらだらと書いたが。

・繰り返すが、こんな風に、人と住み、効果的なだらだらを行い、さびしくなく、つまり楽しく暮らしていると、不安になる。いつまで自分は人と暮らせるのだろうか。暮らしてくれる人がいつまでいてくれるのだろうと物思いが進んでいく。結婚のような出会いに恵まれなくても誰かと暮らせるように、変化しながら維持していかなければならない。いろいろなさまざまな価値観や人間を楽しみ、会話を楽しみ、ストレスに強くなり、健康であり、お金も最低限持っておく。そしてそこに制作も(やはり物語ゲーム作りになりそうだ)加わりつづける。これが今日の日記だ。

2014/03/11

・日記を書きたいと4日前ぐらいには思っていた。日曜日の夜に書くのが一番良さそうに思えたが、こうして月曜日の夜に書いています。

・シルアードクエストを出して1週間。AppStoreみたいなフィールドになるとパーティに広報がいないと戦いが厳しいと感じた。(twitterまま)

・手を動かしてくれる広報が仲間にほしいぜっっ。シルクエみたいなRPGやコマンド選択ADVを発展させたようなゲームが好きな広報なかたはぜひお声をっっっ!!!(twitterまま)

・広報・広告はなかなか大変な仕事だ。しかもできれば制作とは切り離したい。制作者同士がお互いの広報や広告を取り替えるのはどうだろうか。

・シルクエの売れ方と作り方を考えてみて、次に作るものを考え始めています。具体的な形は全然浮かび上がってこないものの。シルクエの続編を片手に考えてみるのも良いかもしれないが、本気で考えてみないと何も浮かばないのではとも思っている。そして短いもの、コンセプトでコンパクトなものにしたいという思いはますます深まっている。広告は、広報をがんばるのか、システムに広告性を持たせるのか。とにかくいろいろ思う。いろいろ。

・時間を持っている仲間がほしい。

・もっと日記に書こうと思ったことがあったはずなのだが、75%失ってしまった。

2014/02/19

・前に日記を書こうと思ってから九日が経っている。セーブの少ない危ない人生です。(twitterまま)

・ラジオは偶然性を体験できるよいメディア、良いしくみ。

・何か印象的なできごとがあった場合、どういう方法で保存、再生するのか。言葉でなのか、音楽でなのか、写真でなのか、映像でなのか、ゲームでなのか。(twitterまま)

・(twitterまま)という表記が気に入った。しばらく多用するかもしれない。

・今日は短くリズムよく日記が書けている。たまたま小気味好い体験が多かったのか。今の気分なのか。子気味良いは、こぎみよいではなくて、こきみよいでした。こんな言葉の確認で途切れてしまうのがおしいぐらいリズムがある。

・日記とtwitterとchangelog(個人的なPCのメモ書き)の関係を見直した気持ち。それは印象的なできごとをまとめたいからという理由と、うまくまとめてゲーム作りに詰め込みたいからという理由による。

・ゲーム制作とゲーム開発の言葉の違い。ある程度見通しは立っているが作るのに人手がいるようなものをゲーム制作、たとえば根幹システムやデバイスやネットワークなどのシステムを試行錯誤しながらまとめていくのが開発。見通しあるなしで使い分けることにした。つまりメニュー周りの仕事も、制作になる場合と開発になる場合がある。昨今はUIが重要とされているからなおさら。制作を製作とか作成に置き換えるともっと違いが伝わりやすいかもしれない。

・背中がかれこれ1週間近く痛かったが、落ち着いてきたような気もする。まだまだのような気もする。

・息を止めて一気に書く日記と、休憩しながらぼちぼち書いていく日記がある。

2014/02/10

・1月29日の日記をアップし忘れていたのでアップした。そのまま今日の日記を書いていく。日記とは言いつつも、二週に一度、二週記なのであるが。

・仕事をして寝ているという状況で、プライベートや個人制作が入りこむ余地がない状況だ。かといって、まったくのゼロというわけではなく、そのわずかな瞬間が、けっこう良いものであるかもしれず、多忙を理由に黙殺するにはおしい。できるだけ書き留めておきたいところだ。

・よく作品などで作り手が、見る人によって違った作品になったらいい、みたいなことをいって賛否両論がある。自分としては賛同も反対もなくて、これは作り手の意図による。確実に一つのストーリー・解釈を届けたい場合は当てはまらないと思うし、たくさんの解釈を意図的につめこんだ作品は当然当てはまると思う。ゲームだとシングルストーリーかマルチストーリーかで明示的にできる。シングルストーリーがひとつの解釈しかない、という意味ではない。

・つまり、誰もが同じ映像をみる映画であっても、解釈のゆらぎがそれぞれの人に別個の物語を再生する。物語というものが全体的にそうなのだと思われる。解釈のゆらぎが深みという意見にはその通りだと思うし、単一の解釈がすきならもっと論理的なもの(たとえば数学)なんかを楽しめばいい。いや、数学的な楽しさをもっと手軽に味わいたい、というニーズがあるのかもしれない。

・あと映画とゲームの比較をすると、映画ではポーズボタンを押すと一時停止となるが、ゲームは何も入力しないでいると延々と今のシーンが再生されている。これは大きな違いだと思う。僕はRPGなんかでよく、何も操作せずにそのままゲームに浸っていることがある。それは特別なイベントシーンではなく、自由に操作できる町の中やタイトル画面であったりする。お気に入りの台詞を画面に映し出してそのまま作業をしたり、何もしないでいたりする。それは絵画とか写真の鑑賞に近いかもしれない。音楽のリピート再生にも似ている。ふっとその瞬間にとどまらせてリラックスしたくなるゲームは、僕の好きなゲームだ。たぶん年を取るともっとこういう要素がほしくなる。いまだにこういう遊び方、ゲームの効用はメジャーではないようだから、自分の作るゲームではなんとか再現したいものだ。

2014/01/29

・帰省してから日記を書いていなかった。うっかりすると、あけましておめでとうございますと書いてしまいそうだ。帰省と同時に仕事が入り東京で働いている。群馬の家にはこの1ヶ月で4、5日しか帰っていない状況だ。ありがたいことだが、めまぐるしいとも思う。体と心に気をつけたいです。

・健全と健康はどちらも大事だと思うが、健全のほうが好みである。

・ハードボイルドなコマンド選択ADVを作りたいが時間がなく取り組めていない。入れたい要素は挙ってきているけど、コンセプトがまだ決まっていない。何を大事にすればいいのだろう。考え続ける対象がまだ定まっていない雰囲気です。

・もう少し日記を書きたいけど、何か書けることはないか。仕事のことは書けない。仕事と睡眠しかしていないから、すぐに思いつけないのだろう。一時的にはかまわないが、あまり良い状態ではないと思う。ネタを見つける時間が減り、やがて習慣が消えていくのが怖いです。

・年が増えてきたからか、怖いという気持ちが生まれてきた。今までも瞬間的には怖かったけど、持続的な怖さはあまりなかったように思う。

2014/01/05

・新年が開けている。夜が明けたら実家を発つので寝ようとしているのだが眠れないでいる。去年のくれぐらいから少しずつ予感があったのだが、こたつが睡魔になるときとならないときがあることを発見した。しばらくこたつで暖まり続けて体が保温状態になるとあまり眠気をもよおさなくなる。切ると寒いが一番弱にしても熱く感じている体温。寝て起きたときや、寒くて頼っているときはすぐに眠たくなる。こたつによって引き起こされる体温の変化が眠気とかかわっているような気がしてならない。

・実家には1週間いた。同年代のほとんどの人よりも多く滞在していると思う。ただ、山登りをしたり、古本屋めぐりをしたりと、これまでの帰省に比べて行動が多く、大みそかと元旦以外はあまりのんびりしなかった。行動的になっているのだろうか? 何かを探し求めているのだろうか? 作業に備えて持って帰ったノートパソコン2台もあまりさわらなかった。1日あたり2、3時間程度しか使わなかったと思う。

・そのパソコン時間は主にいろんなところに書いたネタをかき集めていた。落ち葉拾いのようなものだ。近ごろは制作プロセスを木のモデル(木構造ではない)で考えるのがブームだ。クリスマスツリーに飾りをつけるようなイメージになる。ツリー本体がコンセプト。飾りが各要素や演出。そして持ちネタをツリー用/飾り用で仕分けすると、ほとんどが飾り用のメモで、ツリー用のネタがほとんどなかった。これではゲームが固まらないわけだ。前回の日記でも書いたような気がするが……。

・ツリー用のネタを見つけてこないといけない。新たに探したり考えたりしてこしらえるのか、飾り用のネタを抽象化してツリー用のネタをえるのか。なんとなく、普段見聞きするニュースや人々のつぶやきやコメント、そして個人的な人間関係。これらのうち特に執着するもの、それに自分がなんと感じるかが、ツリーのネタになるのではと思っている。

・今年はまずシルクエiOS版をきちんと出すこと。それから出入りの多かった昨年を受けいれて、地に足をつけること。面白いことを見つけて、より面白がること。地味に。地道に。人は大事。

・それにしても、日に日に、年々、にっきの文章がへたになっている気がする。