2015/04/14

ローカルの日記でさえ書けていない。仕事を始めたらやはり時間はない。働いているという実感と充実感はある。この充実感はよくもありわるくもある。個人制作にとってはどうだろうか。別の場所で新たな刺激を受け取り向き合う気持ちを得る、となれば良いし、別の場所で満たされると向き合う気持ちを奪う、となれば悪い。良かったり悪かったりするのだろう。ただし、時間は限られるのは間違いがない。それは日記を書けていないという状態にも現れている。日記を書いて得られるもの。定着できるもの。そういったものはあるだろう。あと10分だけでも、書き続け、セーブとしたい。

文体派は動いている。ゲーム制作もコンセプトや構想の段階から、テーマやモチーフを得、具体的な画面やゲームデザインの段階に入っていけた。分け入っていけばいくほど、『あぺぽぺ』に似てくる。『あぺぽぺ』とはかつて、仲間のサポートを得て作ろうとしたが、まともに作れなかった世界である。あきらめてはいなかったが、ここにきて、その小さなサブセット、世界の一部分を切り出そうとしている。文体派もまた『あぺぽぺ』の一部分なのかもしれない。それは気晴らしに考えるにとどめよう。文体派だけでも考えることは山のようにある。

7月のビットサミットに文体派のデビュー作(文体派だから処女作と言ったほうがしっくりくるだろうか)を出そうと思っている。コンセプトカーならぬコンセプトゲームでもいい。プロトすぎるプロトタイプでもいい。とにかくあるていどはまとまって形になってプレイできるもの。仕事もしつつだから、僕にとっては中期ハッカソンのようなスケジュールだ。ただ、そこに照準を合わせようとするぐらいであるから、なんとかなるのではという勝算もある。友人とSkypeをしていたら、短編に必要なアイデアが降りてきたのだ。

短編になってくれるようなアイデアは、アイデアの中でも一番ありがたいものだ。『ツキのないがいこつ』にはそれがあった。それがあったから、あのときの僕でも作り上げられた。それだけで全体を決定してしまえるような、核となるアイデア。僕はこれはコンセプトとは少し違うと思っている。コンセプトも同様に制作物の中心になるものだが、コンセプトはチェック機構として作用する。一方、核となるアイデアはそれ自体に肉付けさえすればあれよあれよと作品が完成してしまうようなものだ。

コンセプトを元にしっかり作るという作り方もやっていきたいが、作る楽しさや快楽があるのは核となるアイデアのほうではないかと思う。ただし、今のところ、その核は狙って降ろせるものではないようだ。だからコンセプトベースでも作れるようにならなければならない。今回のプロジェクト(Rashomonと呼んでいる)はコンセプトからはじまったが、途中で核となるアイデアを手に入れたような気がしていて、しかも短編にできそうだ。だから、『あぺぽぺ』っぽいマドルスルーみたいな要素はありつつもたどり着けるかもしれない。そんな胸中の道中です。

2015/04/01

30分のストップウォッチを設定し、4月1日の日記であることを宣言する。あと2時間で、東京に移動を開始する。仕事が開始される。その前に日記を書いておこうというわけだ。もはや日記という呼び名が間違っている。日記は別に書いているからだ。これは日記をまとめたものだ。なんと読んだらいいのだろう「振り返り」「まとめ日記」……。別名が与えられるならば、2週間に一度でも、あるいは1月に一度でも偽りがなくなる。偽りがないどころか「月記」ならば1月に一度が正しいだろう。

前の仕事が終わって4ヶ月あり、体調を崩しながらも、なんとか「文体派」にこぎつけた。これはひとつの完成品よりも大きい成果かもしれない。学者で言えば研究テーマが決まったようなものだ(学者は未経験だから推測の域を出ないが)。手帳展をやって、コンセプトのようなものがあってしかもそれがどこか新しさを備えていた。これは良いものだと思った。『シルアードクエスト』はきちんとゲームの形をなし、チームもあり、この点では『手帳プロジェクト』より満足感は高かったが、復興プロジェクトであり再生事業であった。少なくてもいまの次点ではこうしたお手本に沿ったものよりも、自分で考えた、考え尽くしたものを藁をもつかむような気持ちで形にしたもののほうが、より価値は高いし、自らも周りも満たせた。ゲームにもこのようなものの導入が必要だった。どうしても、時間を無尽蔵風につかって、ダイブして探しとっていかないといけないかった。

それが「文体派」だ。ゲームに文体を持ち込む。一言だとこうなる。それでいて、ゲームを母体とするのだから、娯楽であり親しみがあって、夢中になれて、人を寄せつけるものでなくてはいけない。僕は好きなものを掘って探してたどりついたと思っている訳だから、その楽しさを再生しなければならない。するとなんだ。これもある意味再生事業なのか。とすると、お手本をどれだけなぞるか、逸脱するかが、方向と満足を決めるのだろう。逸脱という言葉は先月から好きである。

この数年は、仕事中はプライベート制作を進めないように、完全に切り分けたが、今回は切り分けずに土日は取り組みたいと思っている。人と会うこともしていきたいが、こちらは平日を使えないだろうかと画策している。そのための東京だ。7月に京都であるというBitSummitに何か動くものを持っていきたい。時間をうまく使いたい。健康や体力が大事になってくるだろう。

文体派の最初の取り組みは「ゲームと詩」だ。伊達文さんに詩をかりて、詩をゲーム世界に招待する体だが、詩を別の生き物(例えばゲーム)と共生させてみる。詩を好きにさせない。詩に無茶をさせる。詩はとまどうだろう。いや、僕がとまどうだろう。ゲームデザインは決まったつもりだったが、詩を迎え入れた次点でご破算だ。いったいどうなるのか。過程も含めて楽しむしかないだろう。1週間単位で、水面下と本番をスイッチするように実験を重ねて作っていくつもりだ。ひそかに文体派の実験はこの時間セットが都合が良いとにらんでいる。

ここまでで20分。だいたいは書けただろうか。他にもあるはずだが、最初に出てきたのが、文体派とこれからの制作のこと。仕事がはじまってからこの頭の中がどうなるか見物だ。できればずっと頭の中にいてほしいが、仕事であり、人のたくさんいる東京である。さてさて。

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