2014/06/14

・日記を見たというコメントをいただいて、あわてて日記を書いている。6月になって日記を書いていないのは分かっていた。他人の手帖は2冊手に入れて、4冊になった。

・ときどきはさぼるものの、インタビューの文字起こしや編集をほぼ毎日している。そうすると文字を書く時間が増える。走り慣れていない人が10キロをマラソンするのが困難なように、僕はまだ10000字を書いて平然としていられるような文章の体力はない。それで日記に向かえなかったのだろう。2000字もいかないぐらいで息があがり休憩を求める。インタビューやNoteで出会った人で、文章をたくさん書いている人がいて、どうしてこんなに連続で文章の固まりを出力できるのか、すごいな、差があるなと。絶倫。文章をたくさん書く人のいる空間に戻ってきた。

・どんな空間にいるのか、その空間にどんな人がいるのかはすごく大事。インタビューやNoteが結局何をもたらしたかというと、新しい人をもたらしたにすぎない。すぎないが、これを得るには、大きなエネルギーがいる。ありきたりな話になるけど、多くの人は流れるプールみたいな運動/生活空間に放り込まれていて(社会/世間などと呼ばれる)、新しい人や環境を得るにはその流れに逆らわないといけない。新しいSNSが運んでくれるのは、逆らうエネルギーだ。そんな新しい流れに、同じ人と突入するのは、自覚的にやれば面白い試みだが、新しさの機会をふいにしているもったいなさもある。

・新しい人に会いたいなと思うし、とっとと十分な良い人を確保して落ち着きたいなとも思う。確保し続けることは無図解師のだけど。無図解師ってちょっとかっこいい。難しい。魅力的な人が常に新しい人を求めていたら、僕はその人をあきらめなければならないのだろうか。人をしぼろうとすると、そういう問題も見えてくる。5人にインタビューして、短期集中でその人を知ろうとする体験は、人についての新しいもやもやとした感覚(まあ、謎だ)を運んで来た。もちろん、ゲームとしてはより先に進んでいるし、もっと運が悪ければ人についてのこんなステージ/ルートを知らずにエンディングを向かえていた。そちらのほうがよりハッピーエンドだったかもしれないが、とにかくこういう分岐を選択して進んで来た。どんなクオリティのゲームであれ、進んでいるという感覚。プレイ感。

・ゲームと現実を区別しなさいと、紋切り型の台詞はあるけど、いまや一転、この日記のようにしてゲームと現実の境界を取り払おうとしている。互いに持ち込み、持ち込まれる。そこでやりとりされるデータの形式は構造を持った物語だ。

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Shirado Masafumi