2008/07/22

・考えてみたら『アペポペ』はやはりライフワークの中心部分なのだな。 自分にとって、 母体となりうる。 その可能性が高いと感じる。 つまり、 常に作り続けられる作品だ。 また、 日常的な作品だ。 『アペポペ』の概念を上回るものが自分に現れない限り。 だから、 他の作品は『アペポペ』から生まれる。 『思考の整理学』で言うところの、 セレンディピティ(副産物)と言えるかもしれない。 セレンディピティが生まれたら、 やがて『アペポペ』に還元されるだろう。 では『アペポペ』とは何だ。 どう作れば良い?どういう存在になれば良い?それらをどのように考えて行けば良い?

・『アペポペ』の姿形。 実験的で、 それら全てを同時に表現可能でなければならないだろう。 柔軟な構造でなければならないだろう。 優れた理科室であり、 美術室であり、 運動場でなければならないだろう。 考えるのに適した個室も完備しなければならないだろう。 こう考えていくと『アペポペ』は非常に巨大な作品に思えてくる。 だが、 それでは駄目な気がする。 正確に言えば巨大であっても良いが、 複雑であってはならないのだ。 これらはよく意識しないとすぐに結びつく。 モノリシックなつくりでなければならない。 シンプルなカオスでなければならない。 相反するものが同時に存在できなければならない。 常に手入れが必要だろう。 質の高い構造が必須だ。 構造を考える良い機会になるだろう。

・抽象的な『アペポペ』のイメージはできてきた。 では、 もっとも自分の苦手とする、 しかし重要な、 具体化する段階に進もう。 やばくなったらまた抽象(と私は思っているゾーン)に逃げよう。 諦めなければやがて形になる。 物事を信じるのはあまり好きではないが、 これは信じたい。

・スパムメールを見ていると、 悪は善の脆弱性を上手くつくよなあ、 と思う。 スパムメールの多くはいい加減にしてほしい類の嫌なもので、 おそらく仕掛け側もそう思ってやっているはずだ。 ならば、 最初に書いて送った主を探知できてぶっ殺せたらどんなに良いか、 と思うし技術的には可能だと思うけど、 もしそのようなことが可能になったら、 では仕掛け側の悪かそうじゃないかをどのように線引きしたら良いのかという話になる。 最終的には、 表現の自由といった類の問題にたどり着くだろう。

・脆弱という視点で善悪を眺めると、 1対多という構図になってくる。 もちろん善が1で悪が多だ。 善が極めて分が悪いように見えてくる。 具体的には、 マイクロソフト社の製品(善)VSセキュリティーホール(悪)だ。 マイクロソフトを善と見れない人もいるだろうが、 セキュリティホールをつく人間を善とは見なせないだろう。 通常の使用ではつく必要がない。 だが、 つかれないことはないだろう。 悪は常に沸いてきて、 善は防戦一方だ。 このように考えいくと、 善が勝つときはいつも強引な寄り切りである理由が分かる。 善は超越しないかぎり、 悪には勝てない。

・ということは、 だ。 逆に見ていくと、 もし悪が巨大であったら、 それを超越しなければならない善の困難なことよ。 悪が巨大企業であったら、 国家であったら、 魔王であったら、 宗教であったら、 ということだ。

・繁殖力が高いのが悪かもしれぬ。善から悪が生まれる。性善説が性悪説を生んだのではないかな。すると性善説が正しいことになるのか。悪が善をのっとる。生まれて最初に善悪のいずれかを感じるとき、悪いことをしているなと先に思うのだとすれば、すでに善の概念があったことになり、性善説だろう。反対であれば性悪説だ。定かな記憶はないが、罪悪感がより先に自覚された気がする。生まれて間もない子が「あ、俺、良い子だな」って不自然じゃないか。「良い子のふりして、おねだりしよう」とか「泣くふりしておっぱいねだってみよう」とか思うのじゃないかな。以後、善と悪のいたちごっこが始まる。(※性善説、性悪説、これらの3文字のみの意味で使っています。もじのみのいみ。内容は知らないでごわ)

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Shirado Masafumi