#2

・神保町で古本を漁った。遊びについての本と、手帳類に関わりそうな気配のある本を探したためだ。遊びの本といえばホイジンガ、カイヨワぐらいしか知らなくて、あとはビデオゲームを出処にした人物しかしらないが、思っているようりも遊びの本は意外と出ていると気がつく。安価だった『藝術・変身・遊戯』山崎正和 や、『遊民の思想』林秀人などを買う。一方で手帳類に関連付けられそうな本は見つからなかった。手帳類の意義を明らかにするのは僕の仕事だとも思っているから、簡単にど真ん中の本が見つかっても、困ると言えば困るのだが。

・山崎正和の『遊技論批判』を読んでいると、「遊び」なる概念に注目が集まっていた年代があるようだ。1970前後だろうか(正確な年代は後で調べること)。戦後から経済成長を遂げた時代があって、一心不乱に働いていた心境から余裕がうまれ、そこで勤労批判やカウンターとしての遊びが注目されたらしい。

・『遊技論批判』では遊びに連関するキーワードとして、「休息」「余暇」「レジャー」「芸術」「勤労」「日常」「生活」「虚構」「イキ」「遊技」「慰安」「功利性」「能率」「緊張と弛緩」「目的」「実人生」などが出た。このあたりの言葉を使って自分でも物事が言えるようになっておくのは議論をするときにも悪くないだろう。古い、と言われるかもしれないが。

・遊び研究所の犬飼さんや上妻さんが言う遊びはどこらへんを参照しているのだろうか。あるいは参照の上にどれだけ自分の思想を再定義・再解釈・更新しているのか。山崎正和などとはずいぶん違う印象を受けた。このあたりは次にあったら聞いてみたいところではある。山崎正和のいう知的なファンションとしての遊技論があった時代より、随分と年月が経っている。

・遊びとプレイの言葉の違いが気になりだした。プロ野球選手はプレイするが遊んではないと感じる。eスポーツの選手もしかり。僕が野球をするときもゲームをするときも遊びになるだろう。

・ここで山崎正和が言っているのは、遊びに過大評価についてだ。遊びは勤労の裏返していどのものであって、本質的に勤労と対立するのは芸術である……(少し乱暴になるが)演劇は観客がいるから芸術であり、遊びはどこまでも自己中心的である……などと読める。ビデオゲームでも観客が発生すると遊びではなくなる、と言えそうだ。となるとビデオゲーム単体は遊びでも芸術でもないと言える。舞台や観客などの状況が出揃って初めて遊びか否かの判断がくだせる。この理屈でいえば、絵だろうが詩だろうが音楽だろうが映画だろうが、状況次第では遊びにも芸術にもなりそうだ。

・さらにいうとビデオゲームを作っている人は何者か。遊び製作者なのか芸術家なのかサラリーマンなのか。ここらへんもよくわからなくなっている。犬飼さんがデベロプレイヤーという言葉を使い始めたが、関係があるかもしれない。野球もプロ選手は遊びではなくスポーツとなっているが、芸術家であるとはあまり言われない。スポーツと芸術はそれぞれ独立した概念なのだろうか。そして遊びとはそこまで独立できるほどの大物概念となり得るだろうか。否か。

・遊びと芸術との間はどうなっているのか。遊びと芸術は接続されたりスイッチしたりするものだろうか。遊びで描いていた絵がいつのまにか芸術になっているということはありそうにも感じる。否定して、そもそもの心構えが必要なのだとも感じる。

・いずれにせよ、遊びを研究するならば日本でも置きた遊戯論ブームのことは抑えておく必要がありそうだ。ミステリについて考えるときに、本格ミステリとか社会派ミステリなどが生まれていったように。

・多少なりとも「遊び」という概念に肩入れがあるので、山崎正和を批判してみたい。どこをどう批判できるのか。そこまで読んで考えて初めて研究と言えるのだろうし、山崎正和をクリアしたとしてもまだ序盤ぐらいだろう。

・多くの人に「遊び」の再解釈や更新を説明するならば、お金を稼ぐことによって遊びという概念がどうゆさぶられるのか、脆弱なのか堅牢なのか、そのあたりは解決しておかないといけないだろう。もし解決できれば堂々と「遊び人」を名乗ることができる(僕がなりたいのかは別にせよ)。

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Shirado Masafumi