2011/03/31

5%ぐらいの確率で関東が危険な状態になると思った。原発問題が安全か危険かは十分に理解できなかったし、日々不安がたまっていき判断能力が減ってきていると思ったので、わかりやすい逃げるか否かのボーダーを決めたところ、越えたので、実家に避難させていただいた。関東に出て以来、実家にはお正月に帰るぐらいだったから、少しためらった。逃げる、という選択肢の一般的なイメージも悪いと思った。でも今は会社組織にも属していないし、それよりも、自分の命は自分で判断しなければいけないと思った。

広島の実家に戻ると、ここは安全なんだという感覚がすぐにあった。たぶん、阪神大震災が起こったときと同じぐらいの感覚。ひどいが、どこか他人事に感じられる距離。生まれて初めて有事を感じた出来事に対して無責任に思えた。それに対し、制作をきちんとする、という、自分の最優先をとってきてふたをした。避難生活を何日かして、そういう感覚にしたと思う。

実家では、かつて自分がずっとそうだったように、母がご飯や風呂や洗濯の世話をしてくれた。父は仕事に行って夜になると帰ってきてご飯を食べた。またこの家の子供になった気分がした。ただ、そういったバックアップを得て、制作ははかどった。より時間をかけて考えなければいけないような作業も、いくつかできた気がする。例えばデザインについて。他にも、いくつか恩恵に見合う成果はあっただろうか。

2週間の疎開生活のあと、高崎に戻り、確定申告の手続き他を済ませた。これでまたひとつ軽くなった。軽くなった自分の制御を自分でしなければならない。意志も決意も実行も強くはないが、それでも、だいたい1週間の半分ぐらいはきちんと作業できるようになってきた。採取的には5日分ぐらいに上げたいが、最低これぐらいを維持できるのも大事だ。調子が悪いときは悪いなりに。プロ野球のピッチャーと似ているだろう。

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Shirado Masafumi