2014/05/01
・5月になったということだろう。風邪で仕事を休んでいるが2日も何もしないでいるわけにはいかないので、日記を書いている。今日は文章をたくさん書けている日だ。前回の日記から2週間経っていない。
・CotEditorという名前のついたMacの新しいエディタを先週ぐらいから導入している。このエディタに縦書き入力モードがついていたので、さきほどから縦書きで入力してみている。感覚は面白いが、ローマ字の入力部分が縦にならないので、気持ちが悪い。慣れのせいだろうか。この段落を書き終えたら普段通りの横書き入力に戻そう。
・今後も縦書き入力はときどきやってみようと思う。いつもと違う日記が書けるかもしれない。思考のでてきかたが普段と違うような気がした。普段スプーンで食べるカレーを箸で食べるような、奇妙なメカニズム。文字の出方と思考の出方の相互作用が気になった。
・新しい文章を取り出せるのは、縦書き入力だけではないかもしれない。例えば新しいエディタを使う。普段とは違うフォントにしてみる。エディタの文字の色や、大きさを変えてみる。背景の色を変えてみることもできる。実はまだ縦書き入力モードで書いている。なかなか楽しい。誤字脱字はいつもにも増しているはずだが。
・縦書き入力にはもうひとつ面白い特性があった。横長のモニタを使っていると、画面を入力文字で占有できる。横長のモニターで横書きだと1行が長くなりすぎると視認性が悪くなるが、縦書きだとそれがない。もちろん縦長のモニターにすれば今度は縦書きのモニターが見にくくなる。とにかく文字をたくさん出したい日は、縦長モニターと横書きの組み合わせか、横長モニターと縦書きの組み合わせが良さそうだ。あるいは本のように2段組になる横書きのエディタはどうだろうか。
・縦書き入力が面白くて、話題がそれてしまっtが、Noteにさらにのめり込んで、インタビュー企画も走らせてしまった。手帖収集企画もあるから、これ以上は企画を増やさないようにしよう。なんといっても個人制作がある。ただ、手帖もインタビューも物語ゲームも自分にとっては通底している。手帖の持ち主に想像をめぐらしたり、インタビュイーについてあらかじめ念入りに想定したりするのは、物語のキャラクターづくりに他ならない。人を考え、想像し、創造する。いつからこんなに人について考えるようになったのだろう。
・それにしても縦書き入力になれない。おもしろい。もっともっと何かを書いてみたくなる。何でも良いから。
・雨の降る5月の夜は縦書き入力にかぎる。
・書くことが楽しくなれば、良いな。まだ、なにか書こうとしている。文房具の試し書きに近い感じで書いている。書き味とでもいおうか。
・CotEditorは入力文字数や行数もデフォルトで出してくれるのでますます書くのが楽しい。たまたま選んだがいいエディターだ。ちなみに筆が滑るが、プログラマは良いエディタをたまたま選べる人種である。エディタと書いたりエデュターと書いたりしているが気にしない。もう1330字も書いてしまった。
・インタビューはいきあたりばったりになりそうだが、ひとつだけ決めているのは、最終的な記事の密度についてだ。できるだけコンパクトにして高めたい。できるだけ削ぎ落としてどこを読んでも密な感じをだしたい。たとえばTwitterの140字、ノベルゲームやRPGのメッセージウィンドウに収まるぐらいの簡潔な文体の連続で構成したい。もちろんそのおさめた文字列の固まりひとつひとつが中身をしっかりと持っていること。これは物語を中心としたゲームでもそうありたいなと薄々思っていたことだ。京極さんがちょうど本の見開きを単位として文章やできごとをきっちりとおさめていくように。デザインの心得はたいしてもっていないが、文字、文章にだけは、心得があってほしいな、と自分に対して思いました。
・縦書き入力モードの画面も残り少なくなってきた。画面いっぱいを日記が占めてきて、そろそろスクロールを必要とする。スクロールは良くない。読みづらくなるし、書きづらくなる。プログラムの関数だってそうだ。ほどほどの長さは画面の大きさとも関係する。そもそもCotEditorの縦書きモードがスクロールに対応していないように見える。そろそろ今日の日記を終わろうと思う。ほどよい限界だ。今日の日記よ、さようなら!
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- Posted at 2014/05/01 03:16
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2014/04/21
・4/13日に日記を書こうとしていた形跡があったものの、手つかずで、結局2週間ぶりに記す。
・noteというサービスがうまれて盛り上がりを見せている。私も登録した。初めてこのブログを見る人のために説明しておくが、実はこのブログは長い間noteという概念で書いてきたので戸惑っている。ただ、少なからず私自身のnoteと似ているところがサービスのnoteにもありそうだ。それはアイデアや考えのスケッチであり、原型であり、プロトタイプであったりする。つまり、作る人が書くnoteという側面はとても似ている。
・一方で私のnoteは当初とは違い、いまは日記的な側面を帯びてきている。これはサービスのnoteでは薄い側面だろう。あまり歓迎されないのではないか。日記的なものやつぶやき、くだらないことなどはTwitterへとすみ分けがみられる。Twitterのサブセットな側面がnoteということになるだろう。アイデアの宝庫であるかもしれないが、パクリと参考の間の問題は生まれそうだ。そしてnoteは買い手市場としてスタートしたように思う。
・さて、手帖だ。私は作る方が好きだが、いつしか書い手としての私も開始させたいと思っていた。長い時間をかけて買い足していくのがコレクターの醍醐味だ。私が買いたいものは何か。物語ゲームや現代アート作品は買ってみたいもののひとつだが、もっといま心を奪われるものがある。それが他人の手帖だ。他人の手帖をのぞきみてみたいし、あわよくば所有したい。noteというサービスにより、私の欲望が瞬時に形を得た。当然、他人の手帖なんてものは簡単に手に入るものではないだろうが、少しずつ集めていきたいものだ。
・思えば私がこのブログをはじめたきっかけは図書館で借りた『思考の手帖』という一冊の本だった。それは哲学者の手帖のようなもので、わたしの心をかき立てた。すぐに私は自分用に買い求め、他人の手帖を所有する愉悦をあじわった。少なくても2007年よりもっと前の話だ。
・『思考の手帖』にすっかり魅せられた私は、それから他人の手帖を探してみたが、良い出会いは少なかった。ヴィトゲンシュタインの断章はそれに近かっただろうか。『思考の手帖』もヴィトゲンシュタインも哲学的で難しいところがあるので、私はもっぱら、詩として読んでいた。あるいは音楽を聴くように読んでいた。次第に私のnoteは手帖というよりは日記になっていった(それにたいして自分自身で不満や疑問を持ち続けながら)。紙の手帖にしても、書きこむときと書かないときとで差が多くなった。やがて、スマートフォンやDropbox上のchangelogに書き込むことがほとんどになった。
・ところがつい先日、神保町で手帖を手に入れる機会があった。これは沼正三という作家の『ある夢想家の手帖から』という、手帖というよりはエッセイ集であるが、マゾヒズムにあふれたこの書物は、再び他人の手帖をのぞきみるという喜びを思い出させた。物語ゲームのアイデアを探している現在の私に、手帖が物質的に、あるいは希望として、再度、心を占有し始めた。冗長になってきたのでそろそろやめるが、そうしたときに、noteというサービスがインターネットにあらわれ、他人の手帖を所有したい欲望を点灯させたのだ。
- Posted at 2014/04/21 00:51
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2014/04/07
・いつも通りの2週間ぶりの日記である。ちょうど2週間おきに、水面に顔を出して呼吸するように。
・息継ぎの少ない働き方をしている。強制されてそうしているわけではなく自ら。シルクエのPC版の時はプログラミングをしなかったので、新しいシステムを個人でプログラムすることになったとき、ある程度の速度で作りたい。できれば仕事はそのための訓練の場でもあってほしい。ゆっくり終電まで働くほうがたぶん疲れないが、身体に負荷をかけて強化できるのと同様の効果を期待している。
・今後時間はもっと少なくなるし、しかもまた一人で作らなければならなくなるかもしれないのだ。できるかぎり避けたいが、それでも続けていきたい。そこに戻っても続けられなければならない。
・群馬の自宅に戻ってドライヤーで髪をかわかした。どうしてか、東京のルームシェアの家に比べてうまくかわかせない。髪の質感が違う。シャンプーのせいだろうか。ドライヤーのせいだろうか。それとも群馬の気候のせいだろうか(可能性は一番ひくそうだ)。ドライヤーは今のルームメイトに教えてもらって使うようになった。きちんと乾かしていると寝ぐせがひどくならないのだ。こんなことも知らずに生きてきた。こんなことかは分からないが。そもそも分からないのが問題だ。
・そんな生活のささいなことに気をもつようになった。他人と住む効能だろう。関心の範囲が広くなっている。対応可能な範囲も広がっている。同時に薄くもなっているのだろうか。これもまたよく分からない。ピアノのインストを聞きながらこの日記を書いている。
・人間についての関心が高まっている。世界への関心はどうだろうか。ある知人が宇宙と恋愛を対にして考えていると言っていたが、それが僕の場合には、世界と人間なのかもしれない。知人の対ととてもよく似ている気がしたが(影響を受けたのだろうか?)、それを本人に言うとどちらにせよ怒るだろう。作り手の多くはどうしてこうなのかというほど、激しい性格の持ち主が多い。僕といると激しくなってしまうのだろうか。できれば、穏やかに共同制作ができる人を望んでいるが、火に水を望むのに似ているのかもしれない。よく誤解されるが、自分自身が激しくないわけではない。
・これが今日の日記だ。
- Posted at 2014/04/07 02:05
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2014/03/25
・ああやはり2週間がすぎている。そしてまた月曜日の夜だ。
・時間を持っている仲間がほしい。(再掲)
・思えば昨年も半年ぐらいは自宅にいなかったが、今年もほとんど自宅に帰れていない。居候でありルームシェアだ。人と暮らすのを楽しく感じ、一人の生活に戻れるだろうかと不安になっている。時々自宅に帰りだらだらしたいという気持ちにもなるが、自宅が遠いのでだらだらした気分では帰ることができない。
・誰かと住んでいると気が引き締まり、生活も引き締まる。誰かと一緒にいると、だらだらする時間が減る。だらだらできる人と住めばだらだらできるのかもしれないが、だらだらしすぎている自分は好きではない。だらだらしたい。また、だらだらしているときはだらだらしている気分になりたい。さもなくばだらだらしている意味も効果もないからだ。その点でも、誰かと住むと効果的なだらだらになる。良いだらだらである。このようにだらだらとはデリケートなものだ。だらだらと書いたが。
・繰り返すが、こんな風に、人と住み、効果的なだらだらを行い、さびしくなく、つまり楽しく暮らしていると、不安になる。いつまで自分は人と暮らせるのだろうか。暮らしてくれる人がいつまでいてくれるのだろうと物思いが進んでいく。結婚のような出会いに恵まれなくても誰かと暮らせるように、変化しながら維持していかなければならない。いろいろなさまざまな価値観や人間を楽しみ、会話を楽しみ、ストレスに強くなり、健康であり、お金も最低限持っておく。そしてそこに制作も(やはり物語ゲーム作りになりそうだ)加わりつづける。これが今日の日記だ。
- Posted at 2014/03/25 02:25
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