2017/11/05

・前回の日記から1ヶ月と少し。前々回の2ヶ月空いてしまったのよりは良い。ここまでの記録をセーブするとしよう。

・記録と言っても、色々なものがあるだろう。行動の記録、思考の記録、感情の記録、備忘の記録、可能性の記録……といった風に。それらが時間や因果によって刻々と変わっていく。時間よりも因果に興味があると知人の方が言っていたので試しに因果と書いてみたら、意外としっくりくるではないか。

・手帳類のほうは「他人の手帳を読む会」が無事終了した。道中は、誰も来てくれなかったらどうしよう、アイドルじゃないから集客はきついか、などと苦しみはあったものの、結果的には敢行して良かった、と言えるものになってくれた。山下メロさんを始め、来てくれた方々に感謝したい。解釈のライブは正直、まだまだだったなと思う。物心ついてから緊張型だと自覚しており、これまでライブや即興、試合といった、瞬発力を避けてきたのだから、当然の帰結というところもあった。パファーマンス/演劇を学ぶべきだとも思ってはいた一方で、これまで私的手帳類をたくさん読んできた蓄積で戦えるという期待もあった。完勝でも完敗でもない結果が出たという感じがしている。

・11月になり、かねての計画通りに最低1か月の無仕事期間に突入した。これまで何度となく無仕事期間を設けてはきたが、時間を大事にしたい気持ちがかつてないほど強まっている。今回はTrelloなどで、「勉強」「手帳類」「生活」「個人制作」「外部刺激」といった項目を作りスケジュールを組みたてつつ、過ごすことにした。出だしは良き日が送れているが、実行項目の合計は時間をオーバーしており、今後はどれかを諦めることも出てくるだろう。中途半端をどうするか。よしとするかだめとするか。どういう配分にしたとてマイナスではなくプラスではあるのだがより効果的な組み合わせを見つけたい。

・『冒険者ギルド物語2』はしっかりプレイしていかなければならない。タイミングをはかったように7章がアップデートされたではないか。毎日最優先でプレイしているがまだ5章である。すごいゲームだ。プレイしながらこのゲームが世界のシステムをよく投影できていると関心せずにはいられない。唸ってしまう世界の投影と言えば有名なゲームですぐに思い起こせるのは『ドラクエ3』の遊び人と賢者の関係だ。

・よく遊ぶということを夏ぐらいからがんばっている。遊ぶことは自発的なものでなければならない。自発的であれば疲れる遊びも遊びであろうか。

・スポーツマンシップを参考にしつつ、プライベーツマンシップを提唱した。手帳類の解釈を通してそれを実践できる。

2017/09/30

・さまざまなことはあったのだろうが、日々の記録が2ヶ月以上も空いてしまうとはどういうことか。それだけ腰を落ち着ける時間がなかったということか。腰を落ち着ける時間がないとはどういうことか。日記を書く時間がまるでなかったというわけではないのだ。仮に時間はあったとしても腰が落ち着くような時間はなかったということだ。腰を落ち着ける時間を増やさなければいけないのではないか。

・ゲームに回帰したい気持ちが高まりを続けている。手帳収集プロジェクトはゲームとかけ離れたものではない。むしろゲームである。とはいっても、無限ゲームではある。回帰したいゲームとはなんだろうか。おそらくコンピュータを使って作られるプログラミングベースのゲームということであろう。

・いまゲームを作るなら、何を考えて何を実装して何を届けるべきだろうか。それぞれの思考、整理、実装をうまく行えるだろうか。以前よりゲームという枠組みが広がった気もして、よりいっそうゲームづくりは困難に思える(特に時間的に)。でも取り組んでみたいとも思える。ある意味迂回してゲームにたどり着くということだ。どう迂回し、逸脱し、見い出し、たどり着くか。

・『冒険者ギルド物語2』は面白い。とっておいたゲームだが、面白いのはいいが、とっておきのゲームがなくなってしまい、セーフティネットが失われてしまった。確保は急務だ。

・飯田和敏さんが「ゲームから哲学が失われてきた」的なことを言っていた。失われてきたのは21世紀になってからのことだろうか。ネットを媒介としたゲームが多く生み出され、スマートフォンという日常やコミュニケーションと一体化したデバイスでのゲームが数多く生み出され、三宅さんが言っていたように思うが「軽いゲーム」になっていった過程もあるだろう。ドミニク・チェンさんは「ゲームのセオリー(ゲーム理論)であって哲学ではない」と言った。デビッドオライリーさんは「ゲームには5次元目=可能性の次元がある」と言い「一貫性が大事」とも言った。どれも正確な引用や発言ではないが僕が受け取った形を示すために「」をつけた。ゲームに哲学はあるのかという問いは、ゲームと作家性の問題とも重なるだろう。

・哲学とかセオリー(理論)とかの言葉を正しく僕はまだ使えないが、防御が硬い敵にシルクエでいうボル(ドラクエ1で言うギラ)の呪文を適切に選択できるように、哲学、セオリー、メソッド(も加えてみる)などの言葉を呪文として自在に使いこなせたらと思う。使いこなせるというのは、それらの言葉が含まれた内容を、しっくりとスムーズに読め、しっくりとスムーズに書け、しっくりとスムーズに聞けることだ。

・少なくても上記の発言の数々は僕が面白いと思うゲームが少なくなっていったことを裏付けてくれるものでもある。一貫した理論、逸脱した理論、などをゲームから感じ取って楽しみたかったのだろう。それは正しくなくてもよい、完全に理解できなくてもよい。やむをえず誰かが書いた手帳や日記を読んでいった、という事情もあったと言えるはずだ。殺菌消毒されてのどごしだけが残ったような食物をたべたときに心地よさの後にやってくるむなしさ。物足りなさ。もちろんそれらを備えたゲームがないわけではない。だけれど、軽さにとどまらないプレイの可能性を備えかつ売れるゲームを導かれたときに、僕の身体や感性と一致していない市場へと向かった。バイオレンスのアクションの方向やハイレゾな方向は、僕はあまり欲っしない。だからこそ、ゲームの外に摂取を求めた。

・おおよそ僕はこのように思っており、今後どのように振る舞えばよいかも自ずと導かれそうなものだ。手帳類がさまざまに展開することでプロジェクトという生態系に少しずつ書き手や読み手を取り込んでいったように、ゲームもまた僕が望む解釈や見い出しを中心とした静かなゲームを打ち出したり発見したりして作り手たちを誘っていかなければならない。そうやって僕が欲するゲームを確保する。それもまた生態的な無限ゲームのひとつの働きだろう。

・日常の行動についてのセーブがあまりできなかったが、今回はこれでいいだろう。セーブは少なくても月に1度は行わなければいけない。せっかくの行動や思考がリセット(巻き戻って)されてしまうから。

#2

・神保町で古本を漁った。遊びについての本と、手帳類に関わりそうな気配のある本を探したためだ。遊びの本といえばホイジンガ、カイヨワぐらいしか知らなくて、あとはビデオゲームを出処にした人物しかしらないが、思っているようりも遊びの本は意外と出ていると気がつく。安価だった『藝術・変身・遊戯』山崎正和 や、『遊民の思想』林秀人などを買う。一方で手帳類に関連付けられそうな本は見つからなかった。手帳類の意義を明らかにするのは僕の仕事だとも思っているから、簡単にど真ん中の本が見つかっても、困ると言えば困るのだが。

・山崎正和の『遊技論批判』を読んでいると、「遊び」なる概念に注目が集まっていた年代があるようだ。1970前後だろうか(正確な年代は後で調べること)。戦後から経済成長を遂げた時代があって、一心不乱に働いていた心境から余裕がうまれ、そこで勤労批判やカウンターとしての遊びが注目されたらしい。

・『遊技論批判』では遊びに連関するキーワードとして、「休息」「余暇」「レジャー」「芸術」「勤労」「日常」「生活」「虚構」「イキ」「遊技」「慰安」「功利性」「能率」「緊張と弛緩」「目的」「実人生」などが出た。このあたりの言葉を使って自分でも物事が言えるようになっておくのは議論をするときにも悪くないだろう。古い、と言われるかもしれないが。

・遊び研究所の犬飼さんや上妻さんが言う遊びはどこらへんを参照しているのだろうか。あるいは参照の上にどれだけ自分の思想を再定義・再解釈・更新しているのか。山崎正和などとはずいぶん違う印象を受けた。このあたりは次にあったら聞いてみたいところではある。山崎正和のいう知的なファンションとしての遊技論があった時代より、随分と年月が経っている。

・遊びとプレイの言葉の違いが気になりだした。プロ野球選手はプレイするが遊んではないと感じる。eスポーツの選手もしかり。僕が野球をするときもゲームをするときも遊びになるだろう。

・ここで山崎正和が言っているのは、遊びに過大評価についてだ。遊びは勤労の裏返していどのものであって、本質的に勤労と対立するのは芸術である……(少し乱暴になるが)演劇は観客がいるから芸術であり、遊びはどこまでも自己中心的である……などと読める。ビデオゲームでも観客が発生すると遊びではなくなる、と言えそうだ。となるとビデオゲーム単体は遊びでも芸術でもないと言える。舞台や観客などの状況が出揃って初めて遊びか否かの判断がくだせる。この理屈でいえば、絵だろうが詩だろうが音楽だろうが映画だろうが、状況次第では遊びにも芸術にもなりそうだ。

・さらにいうとビデオゲームを作っている人は何者か。遊び製作者なのか芸術家なのかサラリーマンなのか。ここらへんもよくわからなくなっている。犬飼さんがデベロプレイヤーという言葉を使い始めたが、関係があるかもしれない。野球もプロ選手は遊びではなくスポーツとなっているが、芸術家であるとはあまり言われない。スポーツと芸術はそれぞれ独立した概念なのだろうか。そして遊びとはそこまで独立できるほどの大物概念となり得るだろうか。否か。

・遊びと芸術との間はどうなっているのか。遊びと芸術は接続されたりスイッチしたりするものだろうか。遊びで描いていた絵がいつのまにか芸術になっているということはありそうにも感じる。否定して、そもそもの心構えが必要なのだとも感じる。

・いずれにせよ、遊びを研究するならば日本でも置きた遊戯論ブームのことは抑えておく必要がありそうだ。ミステリについて考えるときに、本格ミステリとか社会派ミステリなどが生まれていったように。

・多少なりとも「遊び」という概念に肩入れがあるので、山崎正和を批判してみたい。どこをどう批判できるのか。そこまで読んで考えて初めて研究と言えるのだろうし、山崎正和をクリアしたとしてもまだ序盤ぐらいだろう。

・多くの人に「遊び」の再解釈や更新を説明するならば、お金を稼ぐことによって遊びという概念がどうゆさぶられるのか、脆弱なのか堅牢なのか、そのあたりは解決しておかないといけないだろう。もし解決できれば堂々と「遊び人」を名乗ることができる(僕がなりたいのかは別にせよ)。

#1

・EVOのスト5を見ながら、相撲の結果を見ながら、あるいは『ナイトアンドドラゴンズ』をプレイしながら、息をつく暇もない展開に委ねたりプレイしたりするものは遊びかもしれない、などと考えてみたり。

・読むこと、解釈すること、見い出すこと、設計すること、デザインすること、実装していくこと……。これらを遊び化していかないと、体力や気力の低下とともに向き合うのは辛くなるであろう。あるいは、心身をより良い状態に保つこと。

・生活に身を投じながら、半分浸りながら、遊ぶこと。その状態で遊びやすい遊び、あるいは遊びにくい遊び、遊べるようにすべき遊び、などがあろう。

謝辞
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Shirado Masafumi