2010/03/10

・『あぺぽぺ』。日記を更新しない間に、随分と進んだ。とは言っても、一合目。山を登り始めたところだ。それまでは、山の周囲をうろちょろしたり、装備を整えていたに過ぎなかった…ように見える。まだ低いが、それでも景色はなかなか良い。その間、少しコミュニケーションは荒れてしまったが、結果、それが私を山へと押し出したように思う。恥ずかしいから、いやその恥さえも快楽を与えることになりかねないから、その第一歩はあまり大げさにしないでおきたい。制作者が最初に取り掛かるところにようやく着手したぐらいなのだから。

・大体のゲームデザインができてくると、他人の質問に即座に答えられるという感覚があった。それまでは、歯切れが悪かったし、質問によって考えさせられたり、発見することが多かった。もちろん、それはそれで良いが、何事にも段階がある。こういったコミュニケーションにおける感覚においても、『あぺぽぺ』が次の段階へと駒を進めたのだと確認できる。不一致があれば、適切な段階に無い、と言えるのではないか。

・見栄えありきのゲームで無い限り、ゲームの開発当初の画面はユーザーにはバグか?と思えるほど、質素な画面である。ロジックだけならなおさらだ。私は、あまりロジックを仕事で担当しなかったので、こっそりと感動していた。がんばれば、専門学生時代にも作れたロジックだ。ここまでは。しかし、画面に現れるものがまったく同じでも、その裏に、強度が、柔軟性が、依存性が、拡張性が、要するに設計がまるで違うのである。動作を作っているのではない。世界を作っている。

・生活とは、まず生き延びるためのもの。次に、リズムをつくるためのもの。

2010/02/16

・『あぺぽぺ』。なんど日記の冒頭にこの言葉を持ってきただろうか。そろそろ100回目ぐらいかもしれない。制作チームとどれくらい同期が取れているか、分からないが、私ひとりで見ると、視界がかなり開けてきて、それと同時に緊張感も生まれてきた。これから生まれるんだな、と思う。彫刻に例えてみる。例えなくても良い。かなり荒い部分は削られた。プログラムを書かなくてもここまで削れた、という感覚がある。プログラムを書くことでも削れたらよいと思う。この2つの道具は、両方とも使いこなしたい道具である。削るための道具。以前、私は、粘土を捏ねて捏ねていると、書いたかもしれない。それは何かをつかむためだったかも知れない。何かをつかんだかもしれない。捏ねるだけでは先に進まないという体験を得た。削る。

・少しキーボードを止めた。もう一つ別の感触もあるような気がした。それは囲むこと。柵を立てて仕切るかのような行為。追いかける。追い詰めていく。削るのと同じ結果が得られるのかもしれない。対象を狭めたり、小さくしたりする。書く。私にとって書くこと、もちろんほとんどは言葉を使って書く。これは削ったり、追い詰めたりする行為だ。作るものの姿を狭めていき、同時に逃げられないようにするための。

・緊張感を共有したいと思うのは、良いことかもしれないし、コミュニケーションには悪いことかもしれない。慣れない人にとっては特に良くないことなのかもしれない。しかし、完成させるために、この緊張感は役に立つ。日によってはあまり無い日もありそうだが、できるだけまとっていたいと思うし、生成したいと思う。容赦はしない。自分自身に対して。孤独になろうが、体に悪かろうが、これは扱えなければならない。私は今からずいぶんと強くならなければならない。さもないと、いつまで経っても、何もできやしない。それは嫌だ!