2012/10/22

・お仕事をいただき、先週から再び埼玉で働いています。何度目かお世話になっている会社だけど、働く度に発見があり、新鮮に働けています。自身の仕事に向かう姿勢にも影響を与えていると思う。

・たとえば友人と何か作ろうとしてみたり、別の分野の人と一緒に働いたりしてみると、以前勤めていた会社は、周りの人がいろいろ手はずを整えてくれていたんだなあと気づかされる。良い意味でも悪い意味でも楽に働けていた。プログラミングの、それも一部の工程に集中できていた。役割分担がはっきりしていた。分担を上手に切り分ける仕事を誰かがしていたのだろう。

・近頃は、ひとりが複数の役割をこなさなければいけない仕事が多くなった。フリーランス的な立場で働いているのもあると思う。最終的にはプログラミングを求められるが、それ以外にも、それ以前にもスキルが求められるようになってきている。プログラミングの話だけでは伝えられないし、言葉やコードを、たとえばビジュアルを使って伝達したほうが良い場合もある。コードを書くよりも、どういうコードが役に立つのか、あるいはどういうコードなら書けるか、ということを考える割合が増えている。難易度もコストも高いプログラミングの代わりに、難易度もコストも低くしかももっと良い成果を出せるプログラムを考えることもできる。大変だけど楽しいとも思っています。個人制作に近いとも。誰かが何かを作りたがっている。それが自分か他人かの違い。

・オフィスで共に働いたり、遠隔地でチャットをしながら作業をしたりする。一緒に走ってくれる人がいるのはありがたい。ひとりでいるのはすきだけど、ひとりでいつづけるのは苦しい。所属はないけれど、いまの生活はもう、ひとりとは言わないかもしれない。

2012/10/14

・中3日での日記になる。久しぶりという言葉は久しぶりではないが、こんなに間隔が短いのは久しぶりだ。ふっと息を整えたいときに日記を書くのだろう。息継ぎ。深呼吸。もしかすると睡眠をたっぷりとった翌日に日記を書きたくなるのかもしれない(要調査)。

・父親に重病の疑いがあってCTの再検査にかかった(掛かったと書くそうだが、まだ慣れていないのでひらがなで書いてみた)。結果はシロだったので、一安心したのだけれど、結果が出るまでは相当心配したし、緊張と心配を分けるならばここ数年では一番の心配事だったかもしれない。自分の中で起こりえる未来をシミュレートをした。はたから見ると、定職も持たずに、自分制作などと称して、貯金を減らしながら日々をすごしている自身がとても心配されるのかもしれないが、僕からみると今回の両親の件は比べ物にならないぐらい心配した。やはり、健康とか人間関係とかなのだと思う。自分だけでは動かせない問題だからだろうか。

・自分だけでは動かせない問題は思い通りにならない。良い方向に思い通りにならない場合もある。人々はたいてい悪い方向になったときに思い通りにならなくなったと感じるし、言葉にしたくなる。良い方向だと思いがけなくって書くのか。正しい言葉遣いもあるだろうし、みんな違うのだろうが。幸せなときや楽しいときは、語彙は少なくていいし、言葉にする必要すらないことが多い。言葉とは存在自体がネガティブなものなのかしれない。人間らしくもあるのでしょう。色んなものがかかっていく。

2012/10/10

・1週間で日記を書くことを思い出した。それ自体はいたって普通だけれど、今週は特に書くべきものが浮かんできそうにない。それは良いことなのか悪いことなのか。

・1週間、ほとんどずっと名前を考えていたように思う。名前という概念自体が好きだし、考えるのも好きな作業だけれど、仕事量的には多くないので、充実感は得られにくい作業だと感じています。上達したらまた違ってくるのかもしれない。

・それでボランティアのポスター作りをしたり、名前を考える補助のツールを作ったりした。補助ツールは2日でできて、前のチャート作成サービスもそうだったし、短い時間で何かが作れるのはうれしい。それらが名前付けの作業では得られない気分を補填したと思うし、その願望があった。いずれも必要なもので、すぐに活用しているし、バランスの取り方としては悪くない。1日2時間集中できるのが12時間にいきなり増えるというのは、僕の場合、想像しにくい成長だ。

・名前を考えぬくことは、プロダクトのタイトルやキャッチコピーぐらいしか、割りに合わないかもしれない。がんばって考えても拙かったり分かりづらかったり似てしまったりする可能性が高いからだ。ならば流用したほうがお得だろう。世の中に出ているものを見ると、そういう思想で削られているのがほとんどだ。僕は名前が好きなのでがっかりする。せめて、自分の作るものだけは隅々まで検討した名前にしたいと思っている。

2012/10/03

・ふとしたきっかけで僕が昔書いていたプログラムのライブラリをみた。正確なひづけは分からないが、2006年ぐらいから書き始めたものだろうか。勤めるかたわら、2010年ぐらいまで書き続けていたようだ。『あぺぽぺ』というゲームのために書かれたライブラリだった。『あぺぽぺ』と同じく歩みを止めている。いくつかのコードは別のプロジェクトに転用したが、全体としては動いていない。となると、プログラム・ライブラリ自体への愛情を僕はあまり持っていなかったのかもしれない。

・当時のプログラムやプログラムの構成を見ていると、僕がどのように考えていたとか、考えれていなかったとかの断片がうかがいしれる。知っている知識や知らなかった知識も推測できる。技術に関しても同じことがいえる。同時に、もっと思い出せないといけないはずなのに、とも思った。意図が不明確だから記憶も弱い。論理的そのものと言えそうなプログラムという文章をいきあたりばったり書いてきた。コード全体がなんとなくだよ?と訴えてくる。

・意図という言葉は僕をいつも詰問する。僕が意図という言葉をよく使うようになったのは、意図がないと人に説明できないからだ。つまり自分にも説明できない。責任が取れない。要するに困る。いつしか意図とプログラムはセットになってきていた。今ではすこし、意図的になったと思う。でも、プログラマと呼ばれるような人と話していると、不徹底なのだとも思っている。

・ところがさっき、プログラムを愛で語られた。その人の愛はプログラムだけではなくITをとりまくほかの技術にも向けられていた。はっとするものがあった。それはおそらく愛のそれは意図よりも強力だと直感したからだろう。意図よりも愛は強く設計や詳細を記憶する。対象を深く理解しようと努める。しかし愛はさめたらどうなるのだろう?意図以下になってしまうのだろうか。それともプログラミングのような対象への愛は劣化が少ないのだろうか。もうだめだ。僕は愛についてあまり詳しくないのでこれ以上書けない。無理をした。これも意図だ。意図止まりだ。

・もしかしたら僕もプログラムに愛を持っているかもしれない。愛着とか執着とかのほうが適当だと今は思っているが。

・RPG企画のほうは楽しんでやっております。こちらはプログラムはまったくやっていません。その分、言い訳はできません。その状況があり難いし、非常にいいことだと思っています。