2014/04/21

・4/13日に日記を書こうとしていた形跡があったものの、手つかずで、結局2週間ぶりに記す。

・noteというサービスがうまれて盛り上がりを見せている。私も登録した。初めてこのブログを見る人のために説明しておくが、実はこのブログは長い間noteという概念で書いてきたので戸惑っている。ただ、少なからず私自身のnoteと似ているところがサービスのnoteにもありそうだ。それはアイデアや考えのスケッチであり、原型であり、プロトタイプであったりする。つまり、作る人が書くnoteという側面はとても似ている。

・一方で私のnoteは当初とは違い、いまは日記的な側面を帯びてきている。これはサービスのnoteでは薄い側面だろう。あまり歓迎されないのではないか。日記的なものやつぶやき、くだらないことなどはTwitterへとすみ分けがみられる。Twitterのサブセットな側面がnoteということになるだろう。アイデアの宝庫であるかもしれないが、パクリと参考の間の問題は生まれそうだ。そしてnoteは買い手市場としてスタートしたように思う。

・さて、手帖だ。私は作る方が好きだが、いつしか書い手としての私も開始させたいと思っていた。長い時間をかけて買い足していくのがコレクターの醍醐味だ。私が買いたいものは何か。物語ゲームや現代アート作品は買ってみたいもののひとつだが、もっといま心を奪われるものがある。それが他人の手帖だ。他人の手帖をのぞきみてみたいし、あわよくば所有したい。noteというサービスにより、私の欲望が瞬時に形を得た。当然、他人の手帖なんてものは簡単に手に入るものではないだろうが、少しずつ集めていきたいものだ。

・思えば私がこのブログをはじめたきっかけは図書館で借りた『思考の手帖』という一冊の本だった。それは哲学者の手帖のようなもので、わたしの心をかき立てた。すぐに私は自分用に買い求め、他人の手帖を所有する愉悦をあじわった。少なくても2007年よりもっと前の話だ。

・『思考の手帖』にすっかり魅せられた私は、それから他人の手帖を探してみたが、良い出会いは少なかった。ヴィトゲンシュタインの断章はそれに近かっただろうか。『思考の手帖』もヴィトゲンシュタインも哲学的で難しいところがあるので、私はもっぱら、詩として読んでいた。あるいは音楽を聴くように読んでいた。次第に私のnoteは手帖というよりは日記になっていった(それにたいして自分自身で不満や疑問を持ち続けながら)。紙の手帖にしても、書きこむときと書かないときとで差が多くなった。やがて、スマートフォンやDropbox上のchangelogに書き込むことがほとんどになった。

・ところがつい先日、神保町で手帖を手に入れる機会があった。これは沼正三という作家の『ある夢想家の手帖から』という、手帖というよりはエッセイ集であるが、マゾヒズムにあふれたこの書物は、再び他人の手帖をのぞきみるという喜びを思い出させた。物語ゲームのアイデアを探している現在の私に、手帖が物質的に、あるいは希望として、再度、心を占有し始めた。冗長になってきたのでそろそろやめるが、そうしたときに、noteというサービスがインターネットにあらわれ、他人の手帖を所有したい欲望を点灯させたのだ。