2015/02/12

・2ヶ月も日記があいたのは久しぶりだ。今年初めての日記でもある。とはいえ、今年からローカルに文字通りの日記をつけるようになった。2、3日まとめて思い出しながら書く時もあるが、ほぼ毎日の記録がされている。つまりここに書くのは日記についての日記だ。さて30分で何が書けるだろうか。

・その日記だが、風邪やら咳やらで苦しんだ3週間の分は書けていない。苦しみを綴れば良かったのかもしれないが、できていない。それにしても治りが悪い。持ち込まれた風邪なりウィルスなりが凶悪だったというよりは、自分自身の治癒力、免疫力の問題である気がしている。これは、体からの警告とみる。もう少し健康に、強い状態にしておきたいものだ。今は普通に活動ができていて、それ自体が喜ばしい状況です。

・昨年の12月から予定通り仕事をしていない。この期間で何か作品をと思っているが、いっこうに手をつけていない。一方で、体質改造は進んでいる。インプットの量を増やし、1日に5〜6時間は本を読んだりゲームをしたりする体になってきている。素養や教養を吸収できていると良いが……。この量はゲームに関しては、高校生以来じゃないかと思う。読書に関しては過去最高だ。30歳でフリーになってからも、ここまでインプットはしていなかった。一体何をしていたのだろうか。ネットをイメージよりはるかにだらだらとやってしまっていたのだろうか。ちょうどTwitterなどが始まり、ハマっていたかもしれない。

・メディア芸術祭で賞をとるような人たちは、話を聞いているとみな勉強しているなあと思う。例えばオリジナルを辿ったり掘ったりしつつ、学んだ時代や歴史や文脈と向き合い、自身の文脈と合流させている。広告業界のアプローチに近い。それはオタク的知識のありかたとは異なる。軍や銃器の時代考証や知識が豊富なのとは違っている。それらは知識はあるが向き合っているわけではない。考えているわけではない。この違いに今後は敏感でいたい。

・今年は向き合うがテーマになっている。ただ受け取って記憶するだけじゃいけない。仕事が始まって作品を実装するエネルギーがなくなっても、向き合うことだけは毎日続けたい。向き合える体づくり。以前、『思考の手帖』にならって思考や感覚の記録を書いていた時は、あれは一種向き合っていたと言えるだろう。内省していた。そのときは自分自身と向き合っていた。おそらく今後は、自分自身に加えて、外とも向き合っていかないといけない。時代や他人や作品と向き合っていかなければならない。2ヶ月と少し、仕事をせずにインプットを加えてみて、それが分かったのが前進だ。

・向き合いながら、自分の興味を書き出している。より好きなものだけで、作品を構成するために。自分自身の満足のためだけではなく、そのほうが人にも届くだろう。自分の世界を自分以外の世界と繋げればいい。文脈という流れる力を利用できる。そのイメージ。

・22分ぐらいでここまで書いた(2倍以上の時間を使って書き直しているが)。毎日の日記の総括のようなものが取り出せた。すっきりした。これが2ヶ月分のセーブだ。

・待て。大事なセーブを忘れていた。文体派という大発見。この言葉は物語ゲームに比べてより具体的だ。もちろんゲームにおける文体派を意味する。僕の好きなゲームには物語がありさえすれば良いのではない。文字や文章が不可欠で中心となっている。これは僕の個人組織の名前に加えたいと思っているし、手帳収集プロジェクトやインタビューも合流できる。

・文体派、プライバシー、やりとり。この3つが現在の僕のコアだ。2つで表すなら、文体とやりとりだ。かなり近づけた気がする。これを何とか作品化したい。インプットを増やした果てにテーマにたどり着いた2015年の冒頭である。