2017/09/30

・さまざまなことはあったのだろうが、日々の記録が2ヶ月以上も空いてしまうとはどういうことか。それだけ腰を落ち着ける時間がなかったということか。腰を落ち着ける時間がないとはどういうことか。日記を書く時間がまるでなかったというわけではないのだ。仮に時間はあったとしても腰が落ち着くような時間はなかったということだ。腰を落ち着ける時間を増やさなければいけないのではないか。

・ゲームに回帰したい気持ちが高まりを続けている。手帳収集プロジェクトはゲームとかけ離れたものではない。むしろゲームである。とはいっても、無限ゲームではある。回帰したいゲームとはなんだろうか。おそらくコンピュータを使って作られるプログラミングベースのゲームということであろう。

・いまゲームを作るなら、何を考えて何を実装して何を届けるべきだろうか。それぞれの思考、整理、実装をうまく行えるだろうか。以前よりゲームという枠組みが広がった気もして、よりいっそうゲームづくりは困難に思える(特に時間的に)。でも取り組んでみたいとも思える。ある意味迂回してゲームにたどり着くということだ。どう迂回し、逸脱し、見い出し、たどり着くか。

・『冒険者ギルド物語2』は面白い。とっておいたゲームだが、面白いのはいいが、とっておきのゲームがなくなってしまい、セーフティネットが失われてしまった。確保は急務だ。

・飯田和敏さんが「ゲームから哲学が失われてきた」的なことを言っていた。失われてきたのは21世紀になってからのことだろうか。ネットを媒介としたゲームが多く生み出され、スマートフォンという日常やコミュニケーションと一体化したデバイスでのゲームが数多く生み出され、三宅さんが言っていたように思うが「軽いゲーム」になっていった過程もあるだろう。ドミニク・チェンさんは「ゲームのセオリー(ゲーム理論)であって哲学ではない」と言った。デビッドオライリーさんは「ゲームには5次元目=可能性の次元がある」と言い「一貫性が大事」とも言った。どれも正確な引用や発言ではないが僕が受け取った形を示すために「」をつけた。ゲームに哲学はあるのかという問いは、ゲームと作家性の問題とも重なるだろう。

・哲学とかセオリー(理論)とかの言葉を正しく僕はまだ使えないが、防御が硬い敵にシルクエでいうボル(ドラクエ1で言うギラ)の呪文を適切に選択できるように、哲学、セオリー、メソッド(も加えてみる)などの言葉を呪文として自在に使いこなせたらと思う。使いこなせるというのは、それらの言葉が含まれた内容を、しっくりとスムーズに読め、しっくりとスムーズに書け、しっくりとスムーズに聞けることだ。

・少なくても上記の発言の数々は僕が面白いと思うゲームが少なくなっていったことを裏付けてくれるものでもある。一貫した理論、逸脱した理論、などをゲームから感じ取って楽しみたかったのだろう。それは正しくなくてもよい、完全に理解できなくてもよい。やむをえず誰かが書いた手帳や日記を読んでいった、という事情もあったと言えるはずだ。殺菌消毒されてのどごしだけが残ったような食物をたべたときに心地よさの後にやってくるむなしさ。物足りなさ。もちろんそれらを備えたゲームがないわけではない。だけれど、軽さにとどまらないプレイの可能性を備えかつ売れるゲームを導かれたときに、僕の身体や感性と一致していない市場へと向かった。バイオレンスのアクションの方向やハイレゾな方向は、僕はあまり欲っしない。だからこそ、ゲームの外に摂取を求めた。

・おおよそ僕はこのように思っており、今後どのように振る舞えばよいかも自ずと導かれそうなものだ。手帳類がさまざまに展開することでプロジェクトという生態系に少しずつ書き手や読み手を取り込んでいったように、ゲームもまた僕が望む解釈や見い出しを中心とした静かなゲームを打ち出したり発見したりして作り手たちを誘っていかなければならない。そうやって僕が欲するゲームを確保する。それもまた生態的な無限ゲームのひとつの働きだろう。

・日常の行動についてのセーブがあまりできなかったが、今回はこれでいいだろう。セーブは少なくても月に1度は行わなければいけない。せっかくの行動や思考がリセット(巻き戻って)されてしまうから。

#2

・神保町で古本を漁った。遊びについての本と、手帳類に関わりそうな気配のある本を探したためだ。遊びの本といえばホイジンガ、カイヨワぐらいしか知らなくて、あとはビデオゲームを出処にした人物しかしらないが、思っているようりも遊びの本は意外と出ていると気がつく。安価だった『藝術・変身・遊戯』山崎正和 や、『遊民の思想』林秀人などを買う。一方で手帳類に関連付けられそうな本は見つからなかった。手帳類の意義を明らかにするのは僕の仕事だとも思っているから、簡単にど真ん中の本が見つかっても、困ると言えば困るのだが。

・山崎正和の『遊技論批判』を読んでいると、「遊び」なる概念に注目が集まっていた年代があるようだ。1970前後だろうか(正確な年代は後で調べること)。戦後から経済成長を遂げた時代があって、一心不乱に働いていた心境から余裕がうまれ、そこで勤労批判やカウンターとしての遊びが注目されたらしい。

・『遊技論批判』では遊びに連関するキーワードとして、「休息」「余暇」「レジャー」「芸術」「勤労」「日常」「生活」「虚構」「イキ」「遊技」「慰安」「功利性」「能率」「緊張と弛緩」「目的」「実人生」などが出た。このあたりの言葉を使って自分でも物事が言えるようになっておくのは議論をするときにも悪くないだろう。古い、と言われるかもしれないが。

・遊び研究所の犬飼さんや上妻さんが言う遊びはどこらへんを参照しているのだろうか。あるいは参照の上にどれだけ自分の思想を再定義・再解釈・更新しているのか。山崎正和などとはずいぶん違う印象を受けた。このあたりは次にあったら聞いてみたいところではある。山崎正和のいう知的なファンションとしての遊技論があった時代より、随分と年月が経っている。

・遊びとプレイの言葉の違いが気になりだした。プロ野球選手はプレイするが遊んではないと感じる。eスポーツの選手もしかり。僕が野球をするときもゲームをするときも遊びになるだろう。

・ここで山崎正和が言っているのは、遊びに過大評価についてだ。遊びは勤労の裏返していどのものであって、本質的に勤労と対立するのは芸術である……(少し乱暴になるが)演劇は観客がいるから芸術であり、遊びはどこまでも自己中心的である……などと読める。ビデオゲームでも観客が発生すると遊びではなくなる、と言えそうだ。となるとビデオゲーム単体は遊びでも芸術でもないと言える。舞台や観客などの状況が出揃って初めて遊びか否かの判断がくだせる。この理屈でいえば、絵だろうが詩だろうが音楽だろうが映画だろうが、状況次第では遊びにも芸術にもなりそうだ。

・さらにいうとビデオゲームを作っている人は何者か。遊び製作者なのか芸術家なのかサラリーマンなのか。ここらへんもよくわからなくなっている。犬飼さんがデベロプレイヤーという言葉を使い始めたが、関係があるかもしれない。野球もプロ選手は遊びではなくスポーツとなっているが、芸術家であるとはあまり言われない。スポーツと芸術はそれぞれ独立した概念なのだろうか。そして遊びとはそこまで独立できるほどの大物概念となり得るだろうか。否か。

・遊びと芸術との間はどうなっているのか。遊びと芸術は接続されたりスイッチしたりするものだろうか。遊びで描いていた絵がいつのまにか芸術になっているということはありそうにも感じる。否定して、そもそもの心構えが必要なのだとも感じる。

・いずれにせよ、遊びを研究するならば日本でも置きた遊戯論ブームのことは抑えておく必要がありそうだ。ミステリについて考えるときに、本格ミステリとか社会派ミステリなどが生まれていったように。

・多少なりとも「遊び」という概念に肩入れがあるので、山崎正和を批判してみたい。どこをどう批判できるのか。そこまで読んで考えて初めて研究と言えるのだろうし、山崎正和をクリアしたとしてもまだ序盤ぐらいだろう。

・多くの人に「遊び」の再解釈や更新を説明するならば、お金を稼ぐことによって遊びという概念がどうゆさぶられるのか、脆弱なのか堅牢なのか、そのあたりは解決しておかないといけないだろう。もし解決できれば堂々と「遊び人」を名乗ることができる(僕がなりたいのかは別にせよ)。

#1

・EVOのスト5を見ながら、相撲の結果を見ながら、あるいは『ナイトアンドドラゴンズ』をプレイしながら、息をつく暇もない展開に委ねたりプレイしたりするものは遊びかもしれない、などと考えてみたり。

・読むこと、解釈すること、見い出すこと、設計すること、デザインすること、実装していくこと……。これらを遊び化していかないと、体力や気力の低下とともに向き合うのは辛くなるであろう。あるいは、心身をより良い状態に保つこと。

・生活に身を投じながら、半分浸りながら、遊ぶこと。その状態で遊びやすい遊び、あるいは遊びにくい遊び、遊べるようにすべき遊び、などがあろう。

2017/07/17

・3連休は、夏に耐え、ゲームをよく遊んだ。遊び総合研究所の研究員という立場の概念を得て、より遊ばねばと思っているのかもしれない。と、言ったら都合が良すぎるだろうか。

・よりよく遊ばねばならない。

・手帳類は水面下に潜って次なる手を打とうとしている。wordpressによるサイト構築にも手をだす予定。

・仕事は粛々と進めているが、少し担当が増えた。病気にならないよう、気をつけて進めていきたい。

・今の住まいが朝日を受ける場所で、朝から暑くなる。眠っていても起きてしまう状況だ。アイスノンを当てたり、扇風機を当てたり、タイマーによるクーラー制御も試みたりと、なんとか対応している。暑いとなかなか熱中できない。遊びは疲れるものか、疲れないものか、コンディションを整えて、自分なりに見極めてみたい。

・夏はゲームの季節なのかもしれない。

・今年上半期の手帳の応答の反動が来ているとも言えそうだ。反動を感じて、その動に任せてみている、といった状態かもしれない。

・ここへの記録ももっとさまざまなやり方で行いたい。声だとか、映像だとか、グラフィックスだとか、GIFアニメーションだとか。入力とアップロードを気持ちよく行える道具について考えてみること。

・遊びと遊び以外に何とか切れ目をいれてみること。記録を日記と遊びに分けてみる行為から始める。

#0

・王子の遊び総合研究所の研究員になった。実体はまだないが、遊びに関する研究を行い、1年後に発表することになりそうだ。「遊び」とは何と捉えどころのない、広大な、分からないものか!すぐに成果を出せそうもない。よって感覚や思考をメモするところから始める。

・遊びをめぐる冒険。挫折している『あぺぽぺ』も遊びをめぐる冒険であったなあ。

・「遊びは疲れる」と投げかけてみたら、「疲れるのなら遊びではない」と返ってきた。

・出だしとして、古今東西の遊びについての知見をあたってみるか。それとも自分の頭の中から出発するか。制約を設けないでいると両者が並行して進んでいきそうだ。

・ホイジンガ。カイヨワ。遊びと聞いて名前が浮かぶ人たち。日本では五味太郎やかこさとしなどの絵本作家が浮かんだ。そしてゲームでは宮本茂。

・遊びをPLAYに絞るか、それとも毛先を遊ばせるとかアクセルペダルの遊びとかの遊びも入れるか。そもそも目指している概念が遊びなのかも疑いつつ進めていく必要がある。

・僕が発表したい遊びはゲームか手帳類が濃厚。特に後者を想定して進めていく。手帳類はどういう遊びかといえば、私的な領域についての遊びだ。

・私的な領域を遊ぶとはどういうことか。ひとまずここを出発点にして思考を遊ばせようとしている。

2017/06/19

・相変わらずミサイルは落ちてきていない。2週連続でダンボールを捨てるのに失敗した。朝9時に回収が終わっているのはきびしい。

・数年では記憶がないほどよくゲームをしている。昨日も7時間はプレイした。何かが空になり欲したのであろうか、それとも何かを空にしたくて欲したのであろうか。

・手帳類には様々な人がアクセスしてくれる。それによって情熱や可能性が開けていくし、持続していける。取材においても、様々な興味深い人がアクセスしてくれることは重要な指標だと答えている。うろ覚えだが、インタビュアーの方によるとそれを人間関係資本と言っていた(今Webで検索したらそれらしい言葉が見つかった)。ゲームづくりやその他の活動においても同等のアクセス可能性があるだろうか。そこから逆算すると、作るべきゲームの姿や水準がおぼろげながら見えてくる。相当に高いハードルだと思われる。が、あまりに課すのもやめて作ってみようとも考えている。

・先日の取材はスターインタビュワーとでも言うべき方に来ていただいて、大変楽しい取材となった。そばで見ていた方が驚くほどだった。良い聞き手というのはどうしてこう愉快なのだろう。今は、聞き手の書いた本が圧倒的に面白い。ただ僕にとって面白い聞き手は多くなくて、黒子に徹しているタイプの聞き手が好きだ。例えば木村俊介さんがそうだ。

・優れた聞き手のかたともっと話がしたい。インタビューという形でなくても良いし、むしろそのほうが興味深い。インタビュワーの方に逆取材した集成のような本があれば読んでみたい。

・古田さんや村田さんがおっしゃっていたことだけど、作品などの表現されたものは、その人の全てではなくて地中に深くどっしりとしたものがあって、その頭頂部が少し現れたようなものがいい。もちろん隠されたどっしりとしたもの(基礎といっていいだろう)をそれこそこしらえる必要がある。自然とこしらえてしまっている状況・状態がのぞましい。僕より少し上の世代である40代の人で、何人か見受けられる。そういった差が目につくのが40代という年齢かもしれない。年齢だけでくくるつもりはないけれど、あえてくくってみるという見方で。

・書いたものを見直していくと、読点を間違った位置につけているケースが少なくない。変な習慣になっている。書くときに打ちたい読点と読むときに読みたい読点の場所が異なっている。

・そろそろラジオ体操をして出社する時間なのでセーブを終わろう。揮発性の高いメモの記録を再開した。6/14-15あたりは良く書けた。おそらく取材を直前に控えていたからだと思われる。

2017/06/04

・ミサイルは飛んでこなかった。ミサイルという次元の外交ではないのかもしれない。

・本来はゲーマーなのであり、5月はゲームをよくプレイできた。スマートフォンのコマンド選択ADV的ゲームを中心に5つはプレイできた。『名探偵キラリ』と『嘘発見人【万目今日助】』が良かった。キラリのほうはナンセンス的世界観や人物が、万目今日助は表情学的アプローチが面白く、現実でも人の顔をつい見てしまいたくなるような反映があった。

・これを書いている今日は、涼しい気候で、落ち着いた自宅の空間を味わうことができた。同棲が始まってからと言うもの、同じ間取りの空間が2つ以上の表情を持つ。1人の時と2人の時と。仕事の日とお互いの休日の組み合わせをかけ合わせるとさらにさまざまな生活空間となる。手帳類関連の応答が引き続き多いのもあって、1人で過ごす時間を欲していたようなので、今日は出かけもせず、家でよく過ごした。すごしかたのバランスはポーリング的に取得しておきたい。

・手帳類では、ラジオにも出演し、芸能人のかたとライブな会話も楽しんだ。また、手帳類を題材としたワークショップも進行中である。今日はトークイベントのお誘いもいただいた。プロジェクトが広がりや深みを持続させる限り、手帳類はコミットさせつづけるだろう。手帳類もゲームづくりもその他の活動も、持続の要素を見ながら進めていきたい。持続が難しいのならコンパクトや短編に仕立てることもできる。

・ちょっと短いセーブデータになってしまったが、焼きうどんの準備があるのでこれぐらいにします。『思考の手帖』的記録習慣を復活させたいと思ったことを最後につけたしておく。