2009/10/21

・ようやく『あぺぽぺ』を仲間にしっかりと伝えられると思い、会話をしてみた。伝えて、その理解を元に、コンセプトバージョンを作りたいと思っていた。とても上手く行っているかに見えたが、途中から雲行きが怪しくなってきて、全然伝わっていなかった。中身が無い、もしくは同じことかもしれないが、中身が無限に感じられた、という感触らしい。終わりが見えないので、どうしたら良いのか、何がしたいのか、分からなかったようだ。そう言われてみると、話している自分も、分からなくなってきて、仲間の意見に対して、正しい正しくないの判断ができていない、という指摘もあった。今、書いていて思うのは、できるだけ色々なものを飲み込んで吸収して、それを反映させたものを作ろうと私は思っていたのだと思うけれど、それではいちいち時間を置かないと、仲間がその瞬間において何も共有できないのだなと分かり、それは手伝ってもらっている以上、あまり良いことではない。せっかく協力してくれている仲間の意欲も低下してしまう。

・『あぺぽぺ』はせめて、仲間には伝わってほしいと思うし、仲間の意欲や理解、才能を存分に注いでほしいと思うから、いくら『あぺぽぺ』が分からないことが主題とは言っても、やり方を変えねば行けない、と書いていて思う。完成を、完成の姿を、誤差はあるなりに、全員で共有できなければならない。最高のやり方は、無限に話すことだと、私はどこかで考えていて、そうしていたのだけど、時間も、特に仲間の時間は無限ではないのだから、やり方は変えなければならない。はっきりと認識できた。そして、このやり方が、最初の共同作業にはあまりにも向いていないやり方だとも、認識できた。もちろん、良いやり方のひとつだとは思うが、もっと時間がたっぷりあって、気力や体力などのパラメータが最大値のときでないと難しいし、何より断続的に何日もかかるから、常に最大値であることはあまり望めないし、望んではいけない。だから、やり方を変える。完成に近づくやり方を探す。もっとも、これを探すのだって、かなりの時間がかかり、難易度がある。

・そうやって、もう一度、全体を作り直している。芯はあるのはここでも感じられて、何も浮かばなくて困るということはない。おそらく、よりコンパクトな内容になるだろう。もちろん、できるだけ保ちたかった混沌の一部は失われるが、そうやって完成に近づけていくのが表現というものかもしれない。作業は進んでいる。実体にできるのも、そんなに遠くはないだろうか。