2010/08/12

・コンセンサスという言葉は見聞きはしていたものの、実際に使ったのは昨日が初めてでした。たぶんそれまで、コミュニケーションを楽しむために使ったり、何かを求めたりするのに使っていたけれど、保存されていなくて、決定を次回に反映させることをあまりしてこなかった。例えば、5時間話しあって結果を出しても、次に集まった時にその内容がほとんど失われている。こんな感じで、私にとってコミュニケーションは独立していたのだろう。コンセンサスというのは、いま話したことを今後のベースにしていきましょうね、という決定であり念押しみたいなものだと思いました。少し成長できたかもしれない。

・私には女々しいところがあって、ほっとかれ過ぎると、不安だったり寂しさだったりが発生する。別に毎日I LOVE YOUと言って欲しいわけではないのだけれど、異性に限らず、ある人間についてその人との交流が私が期待しているものよりとても少なかったら、私の精神は安定しなくなる。例えば、両親と1、2年話さなかったら、不安になるだろうか(ちなみに両親とは、十分に話せているから大丈夫です)。遠方の友達であっても2,3年何も連絡がないと寂しいと感じるだろう。最近は自分から連絡することも覚えつつあります。自分で相手を選べるのが良いです。反対に、連絡をもらったときの、その人が自分に関心を持ってくれているという安心感は得られないけれど。

・言葉でうまく説明できないけど、感情、勘やプライドなどの理由でどうしても譲れないことがある。それを相手に言葉だったり論理だったりで説明を求められることがある。それらは、しばしば、さもないとお前は間違っているから改めろ、みたいな調子で迫ってくる。こうした時にどうしたら良いだろう。説明はできないけど、譲れないんだ、としか言いようがなかった。私はどちらかというと迫ることが多かったので、反対の立場になってみて、かつてそうやって迫った人に対して申し訳なく思う。一方で、迫る側にはそれが明らかに間違って見えているし、それを正したらどんなに良いことかと思っている。こんな状況はこれからもたびたび訪れるだろう。私はどのようにふるまったらよいだろうか。

・論理は万能ではない。少なくても論理が弱い人間にとってはあまり役に立たない。例えば文句の言い合いをしているときに、論理で説明したところで、相手が受け取るのは論理ではなく、その言葉や語調に込められた感情だったり強さだったりするのがほとんどだ。

・また、私は臆病なので、言いたいことを言えないことが多々ある。特に、論理的な説明を求められる場で十分な説明ができないときは、つい発言を控えてしまう。何か物を作るときにそれは大きな失敗を育ててしまうことが多々あって、人に迷惑をかける。最初の会社は特に体育会系だったし、そこで反射的に控える癖がついたのかもしれない。それをためてどこかでまとめて出す、みたいなことをよくしてしまう。いまはそれでは困る場合が多いので、一枚一枚皮をはがすように、思ったことを言えるようにしているところです。たとえ根拠が十分に論理的でなくても、私情やプライドや勘であっても、言えるようになれれば良いなと思っています。

・身体、精神、技術、知識…知りうる限りのあらゆる側面から、ひとりで作品をつくるための向上を施していくこと。