2012/10/03

・ふとしたきっかけで僕が昔書いていたプログラムのライブラリをみた。正確なひづけは分からないが、2006年ぐらいから書き始めたものだろうか。勤めるかたわら、2010年ぐらいまで書き続けていたようだ。『あぺぽぺ』というゲームのために書かれたライブラリだった。『あぺぽぺ』と同じく歩みを止めている。いくつかのコードは別のプロジェクトに転用したが、全体としては動いていない。となると、プログラム・ライブラリ自体への愛情を僕はあまり持っていなかったのかもしれない。

・当時のプログラムやプログラムの構成を見ていると、僕がどのように考えていたとか、考えれていなかったとかの断片がうかがいしれる。知っている知識や知らなかった知識も推測できる。技術に関しても同じことがいえる。同時に、もっと思い出せないといけないはずなのに、とも思った。意図が不明確だから記憶も弱い。論理的そのものと言えそうなプログラムという文章をいきあたりばったり書いてきた。コード全体がなんとなくだよ?と訴えてくる。

・意図という言葉は僕をいつも詰問する。僕が意図という言葉をよく使うようになったのは、意図がないと人に説明できないからだ。つまり自分にも説明できない。責任が取れない。要するに困る。いつしか意図とプログラムはセットになってきていた。今ではすこし、意図的になったと思う。でも、プログラマと呼ばれるような人と話していると、不徹底なのだとも思っている。

・ところがさっき、プログラムを愛で語られた。その人の愛はプログラムだけではなくITをとりまくほかの技術にも向けられていた。はっとするものがあった。それはおそらく愛のそれは意図よりも強力だと直感したからだろう。意図よりも愛は強く設計や詳細を記憶する。対象を深く理解しようと努める。しかし愛はさめたらどうなるのだろう?意図以下になってしまうのだろうか。それともプログラミングのような対象への愛は劣化が少ないのだろうか。もうだめだ。僕は愛についてあまり詳しくないのでこれ以上書けない。無理をした。これも意図だ。意図止まりだ。

・もしかしたら僕もプログラムに愛を持っているかもしれない。愛着とか執着とかのほうが適当だと今は思っているが。

・RPG企画のほうは楽しんでやっております。こちらはプログラムはまったくやっていません。その分、言い訳はできません。その状況があり難いし、非常にいいことだと思っています。