2014/09/27

・10日間隔が開いての日記。前回が20日ほど開いたから次は5日後に日記を書くだろうか(まずない)。明日インタビューを控えているが、相手への質問の精度を上げるべき時間に、自分のことがたくさん浮かんできてしまうもので、そういうものだとして、日記を書こうと思い立ったわけである。

・前回の日記に書いた日常で良いと思ったさまざまな情報や、人や、知識を、ゲームの形に閉じ込めたい。物語はそれらを形にしたり落とし込むのに便利な方法である。そう言ってしまってはどうか。これだけ物語という言葉を使ってもなお、物語が中心にないような気がするのは、物語重視であっても、物語中心ではないのかもしれない。物語を起承転結のようなお話というだけでなく、ゲームならでは物語、語り方という範囲まで広げてしまえば、なおも物語中心であるかもしれない。

・なぜ僕はゲームが作りたいんだろうか(ゲームでなくていけないのか?)というふわふわした問いにも、答えが出かかっている。The Tokyo Art Book Fairや、裸足での山登りや、朗読会や、海や、ドキュメンタリー映画などを見て、楽しかったり感激したりしても、それでもなおゲームという体験が揺るがない。しがみついているのかもしれない。過去を美化しているのかもしれない。それでも、揺るがない。

・ゲームを遊ぶ人は、どこか孤独が好きで、孤立したような感覚や、どこにも属せていない感じをもった人が多いように想定している。自分自身を元にした想定ではある。社交的で毎週末の人と会う予定が埋まっていたり、たわいもない話を投稿したらお気に入りやイイネが100個ついたりするような人ではない。美少女ゲームのような流通と共有が十分に満たされた作品群でもない。だけども、だからといって、そんな人にも豊かさを体験できるべきだし、届けようとするものがあっていい。ただの慰みものではない、もう少し、いくばくかの、野心と希望の発芽を試みるようなゲームだ。ゲームから始まる物語や進行があってもいい。箸休めにしてくれても、踏み台にしてくれても構わない。そんな気持ちになる物語で包んだゲームを作りたい。

・タイポグラフィを大事にしたゲームは目指したいもののひとつ。タイポのアニメーション。それを実現するクラス図のイメージができている。

・ゲームも物語も器だ。僕にとって長く自然と親しんだ器。

・アートに鑑賞者教育があるように、ゲームのプレイヤー教育についても考えること。できればゲームに押しつけがましくなく盛り込むこと。そうしないと既存のゲームになれたユーザーに分かりにくく、すなわち伝わらなく、届かない。

・僕が作るゲームには、マンガ並の分かりやすさがあってほしい。シルアードクエストもそうだが、既存の親しまれたゲームを土台にしてもいい。分かりやすいからといって、新鮮さや驚きがないわけではない。

・これが今日の日記だ。